境界線がない人は、なぜ自分ばかり責めるのか|幼少期トラウマと自己犠牲の心理

境界線 境界線・自己肯定感

誰かが不機嫌になると、自分が何か悪いことをしたのではないかと考えてしまう。理不尽な要求をされても断れず、傷つけられたはずなのに、最後には自分から謝っている。相手の言動に違和感を覚えても、その感覚を信じられず、「私の考えすぎかもしれない」と自分を納得させてしまう。

境界線を持てなかった人の人生が消耗し、危うくなりやすいのは、こうした小さな自己否定が日常のあらゆる場面で繰り返されるからである。

「私が悪いのではないか」「私の配慮が足りなかったのではないか」「私が我慢すれば済む話なのではないか」。

問題が起きるたびに、ほとんど反射的に責任を自分の側へ引き寄せてしまう。相手の言動を検討する前に、自分の何がいけなかったのかを探し始めるのである。

このような心理の背景には、幼少期の親子関係や機能不全家庭で形成された生存戦略が関わっていることがある。

親の機嫌を損ねないこと、自分の欲求を抑えること、家族の問題を自分が引き受けること。それらが安全に暮らすための条件になっていた場合、大人になってからも同じ方法で人間関係を維持しようとする。

すると、自分の生活を守るための判断が、いつの間にか他人を満足させるための判断へと置き換わっていく。

境界線を持てないことの深刻さは、他人に振り回されやすくなるだけでなく、自分の感覚を頼りに人生を選べなくなっていくところにある。

境界線とは何か――冷たさではなく、自分を守るための輪郭

心理的な境界線(バウンダリー)とは、自分と他者の感情、責任、欲求、価値観を区別するための内的な輪郭である。

相手が怒っているからといって、必ずしも自分が悪いわけではない。誰かが困っていても、すべての問題を自分が解決する必要はない。相手の期待に応えられなかったとしても、自分の存在価値まで否定されるわけではない。

こうした区別ができることによって、人は他者と適切な距離を保ちながら関係を築いていける。

境界線は、相手を拒絶したり、人を遠ざけたりするためだけのものではない。自分が何を感じ、何を望み、どこまでなら引き受けられるのかを知るための心理的な基盤でもある。

しかし、幼少期から自分の感情や意思を尊重されなかった人は、この輪郭を育てる機会を十分に持てなかったことがある。

親の機嫌が悪いと、自分に原因があると感じる。友人から頼み事をされると、断ったあとの関係が怖くなる。恋人が不満を口にすると、相手を満足させられない自分に価値がないように感じてしまう。

関係のなかで起きた問題が、そのまま自分の存在価値を揺るがす出来事になってしまうのである。

本来であれば、理不尽な扱いを受けたときには怒りが生まれ、不快な距離の近さには違和感が生じる。ところが、境界線を持てなかった人は、その感情が生まれた瞬間に、自分のほうが間違っているのではないかと考えてしまう。

こうして怒りは内側へ折り返され、相手への疑問よりも自己否定が強くなっていく。

境界線が育たなかった背景――見捨てと過干渉のあいだで

境界線は、幼少期の人間関係を通して少しずつ育っていく。

子どもが嫌だと感じたとき、その気持ちを聞いてもらえる。自分で選んだことを尊重され、間違えたときにも人格まで否定されない。親と意見が違っていても、安心して同じ家で暮らすことができる。

こうした経験が積み重なることで、自分には自分の感情や意思があり、それを持ったまま他者と関わっていていいという感覚が育っていく。

しかし、親が見捨てたり、無視したり、気分によって態度を変えたり、子どもの感情や判断を一方的に否定したりする家庭では、この発達が妨げられることがある。

子どもが「嫌だ」と言えば、親が怒り出す。「悲しい」と訴えれば、そんなことで泣くなと言われる。自分の希望を伝えても、「あなたのためを思って言っている」と親の考えに置き換えられてしまう。

そうした生活が続くと、子どもは自分の気持ちを感じ取るよりも、親が何を求めているかを察知することに注意を向けるようになる。

自分はどうしたいのかを考える前に、親が怒らない選択を探す。疲れていても家族の世話をし、嫌なことがあっても家庭の空気を悪くしないように振る舞う。

こうして子どもの内側には、自己の輪郭を育てる代わりに、他者を監視するためのアンテナが発達していく。

Dadiら(2023)は、幼少期に心理的虐待を経験した18〜25歳の若者58人へのインタビューを分析した。その語りには、親の期待を満たせないことへの非難、人格への攻撃、兄弟や他人との比較、子どもの感情や心理的な苦しみを否定する関わりなどが繰り返し現れていた。

こうした経験のなかで、子どもは自分の感情を信じにくくなり、周囲の評価を通して自分を判断するようになることがある。

境界線を持てなかった背景には、単に自己主張を練習する機会が少なかったという問題を超えて、自分でいていい領域そのものが家庭のなかで認められなかったという経験が存在している。

「全部自分が悪い」は道徳ではなく、生存戦略である

境界線を持てなかった人は、人間関係で何か問題が起こると、相手の行動を検討するよりも先に自分を責め始める。

職場で上司が理不尽に怒鳴ってきても、自分の仕事の進め方に問題があったのではないかと考える。恋人から冷たい態度を取られると、自分の愛情が足りなかったのではないかと悩む。家族から過度な要求をされても、応えられない自分に罪悪感を抱いてしまう。

その根底には、子どもの頃に身につけた「自分が悪いことにすれば、関係を保てる」という心理がある。

幼い子どもは、親の保護なしに生活することが難しい。親が理不尽で、傷つけてくる存在だったとしても、その親に頼って生きていかなければならない。

親が悪いと認めることは、自分を守ってくれるはずの世界が危険であると知ることでもある。

そのため、子どもは親の問題を自分の責任として引き受けることがある。

「私が良い子になれば怒られない」「もっと頑張れば愛される」「私が悪かったから、こんなことになった」。

そう考えることで、子どもは親への期待を持ち続けられる。自分が変われば状況を改善できるという希望も残る。

しかし、この生存戦略には大きな代償がある。

自分の怒りや悲しみを否定し、理不尽な扱いを受けたことへの疑問まで、自分の内側に押し込めてしまうからだ。

大人になってからも、問題が起きるたびに「私さえ変われば」という考えが自動的に生まれ、他者の責任まで引き受け続ける。

このような全部自分が悪いと思ってしまう心理と幼少期の親子関係には、長年の自己否定を支えてきた生存戦略が深く関わっている。

フェアバーン――子どもは親を失えない

精神分析家フェアバーンは、子どもが愛着を向ける相手から傷つけられるとき、その苦しい現実をどのように心のなかで処理するのかを考察した。

その理論で重要なのが、悪い対象を内在化し、自分自身を悪い存在として引き受けるという心理構造である。

子どもは親を必要としている。親から傷つけられても、愛してほしい気持ちは残る。親を完全に悪い存在として捉えてしまえば、自分の世界そのものが不安定になってしまう。

そこで、親を心のなかで守るために、自分のほうが悪いのだと考える。

このような働きを、フェアバーンは「道徳的防衛」という概念で説明した。

子どもは自分を悪い存在として引き受けることで、親が良い存在であるという希望を保とうとする。その結果、自分自身への否定が心の奥に残り続けることがある。

この構造は、大人になってからの人間関係にも持ち込まれやすい。

相手が怒っていると、自分が悪いと思う。相手が不誠実な態度を取っても、自分に原因があったのではないかと考える。傷つけられたことを訴えるよりも、自分が謝って関係を修復しようとする。

その背景には、自分が悪いことにすれば、相手とのつながりを失わずに済むという古い判断が残っている。

自分を責めることが、かつては関係を守るための方法だった。しかし、大人になってからも同じ方法を使い続けると、自分を傷つける関係から離れることが難しくなっていく。

バリントの「基底欠損」――安心できる世界の前提が育たなかった

精神分析家マイケル・バリントは、発達の早い段階で養育環境と子どもの欲求が十分にかみ合わなかったことによって生じる深い傷つきを、「基底欠損(basic fault)」という概念で捉えた。

幼い子どもにとって、助けを求めれば誰かが応えてくれるという経験は、自分と世界との関係を形づくる重要な土台になる。

怖いときに守られ、悲しいときに受け止められ、困ったときに助けてもらう。そうした経験が重なることで、人は他者に頼ることや、自分の欲求を伝えることに安心を持てるようになる。

しかし、その経験が十分に得られなかった場合、助けを求めること自体が怖くなることがある。

「助けて」と言う以前に、「助けを求めても誰も来ない」「頼ればかえって傷つく」という感覚が根づいているのである。

そのため、境界線を引こうとしても、相手に断ることや自分の意思を伝えることに、強い恐怖が生じる。

境界線を持つことは、その人にとって単なる対人スキルの習得ではない。自分の意思を持っても関係が壊れず、必要なときには助けを求められるという、世界の前提を少しずつ育て直す作業でもある。

ストロロウ――受け止められなかった苦しみは、自己否定へ変わる

精神分析家ロバート・ストロロウは、心の苦痛を個人の内側だけで完結するものとしてではなく、他者との関係のなかで理解することを重視した。

子どもが悲しみや恐怖を経験したとき、その感情を誰かが受け止めてくれれば、自分の経験として少しずつ整理していける。

しかし、苦しみを訴えても無視され、否定され、あるいはその感情を利用されるような環境では、自分が傷ついたことを言葉にすることさえ難しくなる。

すると、心のなかでは奇妙な変換が起こる。

「私は傷つけられた」という感覚が、「私が悪いから傷ついている」という理解に置き換わっていくのである。

傷ついた自分の気持ちを誰にも受け止めてもらえなかったため、自分自身もその感情を否定するようになる。

怒りを感じても、相手が悪いと考えるより、自分の受け取り方を責める。悲しくなっても、相手の行動を問い直すより、そんなことで傷つく自分がおかしいのだと思ってしまう。

こうして苦しみは孤立したまま内側に残り、自己否定を強めていく。

境界線を育て直すためには、自分の感情を安心して表現でき、それを理解しようとしてくれる関係が重要になる。自分が感じたことを誰かに受け止めてもらう経験によって、これまで否定してきた感情を、自分自身のものとして取り戻していくことができる。

怒れない理由――怒りは境界線の感覚だから

境界線を持てなかった人は、怒りを感じること自体に強い不安を抱くことがある。

幼い頃、親に反抗すれば激しく怒鳴られたり、無視されたり、関係を断つような言葉を向けられたりした。その経験が重なると、怒りは関係を壊す危険な感情として記憶される。

そのため、大人になっても、誰かに理不尽な扱いを受けたときに怒ることが難しくなる。

相手に腹が立っても、「きっと悪気はなかった」「自分にも落ち度がある」「ここで怒ったら関係が悪くなる」と考え、感情を引っ込めてしまう。

本来、怒りには、自分の大切なものが侵害されたことを知らせる働きがある。

嫌なことをされたとき、無理な要求をされたとき、自分の意思や尊厳を軽く扱われたとき、怒りは「ここから先には入ってほしくない」という感覚を生み出す。

もちろん、怒りをそのまま相手への攻撃に変える必要はない。怒りを感じることと、攻撃的に振る舞うことは別の問題である。

しかし、怒りそのものを否定してしまうと、自分が何を嫌がっているのか、どのような扱いを受け入れたくないのかが分からなくなっていく。

相手に腹が立つたびに、自分を責める。断りたい気持ちが生まれるたびに、わがままな自分を叱る。そうして怒りを内側に折り返し続けると、慢性的な疲労や無力感、抑うつ的な状態につながることもある。

境界線を取り戻すためには、怒りを危険なものとして封じ込めるよりも、その感情が何を知らせようとしているのかを理解することが大切になる。

トラウマ理論――身体が先に安全を選ぶ

境界線を持てなかった人の問題は、考え方だけでは説明しきれない。

相手の声色や表情、沈黙、LINEの返信が遅れることなどに、身体が敏感に反応する場合がある。

誰かが不機嫌そうにしているだけで胸がざわつく。上司から名前を呼ばれると、反射的に身体がこわばる。恋人に冷たい態度を取られると、何を言えば機嫌が直るのかを必死に考え始める。

こうした反応には、過去の危険な関係のなかで身につけた警戒心が関わっていることがある。

幼い頃から親の気配を読み、怒りの兆候を察知して身を守ってきた人は、相手のわずかな変化にも注意を向けやすい。

そのような場面では、身体が緊張し、危険を回避することが優先される。落ち着いて相手の責任と自分の責任を考える余裕が失われ、以前と同じ反応が出やすくなる。

「私が謝れば収まる」「私が我慢すれば関係は続く」。

その判断は、頭で十分に検討する前に生じることがある。

つまり、境界線を引けない背景には、相手に逆らうことを危険として感じ取る身体の反応が関わっている場合もある。

大人になってから境界線の大切さを理解しても、実際に断ろうとすると強い不安が生まれるのは、そのためである。

身体レベルで起きていること――解離と緊張の固定化

相手の機嫌を読み続け、常に自分の言動を監視していると、身体は慢性的な緊張を抱えるようになる。

肩や首がこわばり、呼吸が浅くなり、胃腸の調子が悪くなる。人と会ったあとに極端に疲れたり、誰かと一緒にいると自分の感覚が分からなくなったりすることもある。

さらに強い負担が続くと、解離的な反応が現れる場合もある。

相手から責められている最中に頭が真っ白になる。言い返したい気持ちはあるのに、言葉が出てこない。何をされたのか分かっているはずなのに、どこか他人事のように感じられる。

あるいは、自分の身体が遠くにあるような感覚や、現実感が薄くなる体験が生じることもある。

こうした反応は、圧倒的なストレスから心身を守るために起こる場合がある。

境界線を持てなかった人は、相手に対して外側から抵抗することが難しい一方で、内側では感覚や感情を切り離すことで、その場を耐えようとしてきたのかもしれない。

しかし、その方法を長く続けると、自分が本当は嫌がっていることや、身体が限界に近づいていることにも気づきにくくなる。

このような解離の症状と身体が現実感を失う仕組みを理解することは、自分の感覚を取り戻すための手がかりになる。

アイゲン――存在の基盤が揺らぐような恐怖

精神分析家マイケル・アイゲンが描いてきた心の深い傷つきの世界には、単なる不安や悲しみでは表現しきれない、存在そのものが脅かされるような感覚がある。

境界線を持てなかった人は、相手に拒絶されたとき、ただ嫌われたと感じるだけでは済まないことがある。

自分の居場所が消えてしまう。存在していてはいけないように感じる。相手との関係が失われた瞬間、自分自身まで崩れてしまうような恐怖に襲われる。

こうした体験では、自分と他者の境界が曖昧になり、相手の反応が自分の存在価値そのものを決めるようになっている。

相手が優しければ安心できる。しかし、少しでも冷たくされると、自分の存在が否定されたように感じてしまう。

その恐怖が強いほど、人は過剰な謝罪や配慮を繰り返し、相手をつなぎ止めようとする。

ここで起きているのは、単に嫌われたくないという気持ちを超えて、関係を失うことが、自分自身を失うことのように感じられる状態である。

カルシェッド――境界線が「戦場」になる

ユング派の分析家ドナルド・カルシェッドは、深いトラウマを抱えた心の内側に、傷つきやすい部分を守ろうとする強力な防衛システムが形成されることを論じた。

この防衛は、もともと自己を守るために生まれたものである。しかし、守る働きが過剰になると、かえって自分自身を厳しく攻撃するようになることがある。

境界線を持てなかった人の内側でも、これに似た葛藤が起こることがある。

ある部分は「もっと相手に合わせろ。そうしなければ見捨てられる」と自分を追い立てる。

別の部分は「もう誰にも近づくな。人を信じると傷つく」と警告する。

相手に合わせようとする自己と、関係そのものから逃げようとする自己が、心のなかで対立するのである。

親しくなりたいのに、近づかれると怖くなる。関係を保ちたいのに、相手の要求が増えると突然すべてを断ち切りたくなる。

外側では他者の感情に飲み込まれ、内側では自分を守る力が極端な方向へ働いている。

境界線が存在しないというより、境界線をめぐって心の内部で戦いが起きている状態と考えることもできる。

こうした人にとって、境界線を育てることは、相手との距離を調整するだけでなく、内側で対立している感情や欲求を理解することでもある。

シミントン――自分のために生きる生命力が削られていく

精神分析家ネヴィル・シミントンは、心の生きた働きや、自分自身の経験に主体的に関わることを重視した。

境界線を持てなかった人は、他者との関係のなかで、自分の時間や感情、注意を絶えず差し出している。

相手が困っていれば助け、頼まれれば引き受け、機嫌が悪ければなだめる。そうして一日を終えたあと、何も残っていないような虚しさを感じることがある。

きちんと仕事をこなし、誰かの役に立ったはずなのに、達成感よりも疲労が強く残る。

それは、自分の意思で何かを選び、自分のために行動したという感覚が乏しいからかもしれない。

境界線が曖昧になると、自分の欲求よりも他人の要求が優先され、自分の人生を生きている感覚が少しずつ薄れていく。

何をしたいのか分からない。好きだったことを楽しめない。人と一緒にいると疲れるのに、一人になると空っぽになる。

このような状態では、自分が何を感じ、どこに力を注ぎたいのかという、生命力の向かう先が見えにくくなっている。

境界線とは、自分の時間やエネルギーを、何に使うのかを決めるためのものでもある。

神話的な視点――呪いと召命を背負わされた人生

境界線を持てなかった人の人生を神話的に捉えると、そこには「呪い」と「召命」という二つの力が見えてくる。

幼い頃から家族の問題を背負い、誰かの苦しみを理解し、周囲を支える役割を与えられてきた人は、自分が何のために生きているのかを、他者への献身によって確かめようとすることがある。

誰かを救わなければならない。家族を支えなければならない。自分が我慢することで、周囲の人が幸せになるなら、それでいい。

その役割は、人生の使命のように感じられることさえある。

しかし、その使命を果たそうとするほど、自分自身は疲弊していく。

親の期待を背負い、恋人の問題を引き受け、職場でも誰かの代わりに責任を負う。場所や相手が変わっても、同じ役割が繰り返される。

まるで、かつて家庭のなかで与えられた役割が、呪いのように人生について回るのである。

クラリッサ・ピンコラ・エステスの『狼とともに走る女たち』に描かれる野生の自己は、こうした生き方を考えるうえで象徴的な意味を持つ。

本来、人には、何に近づき、何から離れるべきかを感じ取る力がある。嫌悪感や怒り、身体の違和感は、ときに自分を守るための重要な手がかりになる。

しかし、家庭が危険だった人は、その感覚を信じることができなくなっていく。

嫌だと感じても我慢し、怖いと感じても相手に近づき、自分の直感よりも周囲の期待を優先してしまう。

こうして押し込められた感情は、やがて夢や怒り、衝動、身体の緊張などを通して、再び意識に現れることがある。

それらの感情には、自分が本来持っていた境界線を取り戻そうとする意味が含まれているのかもしれない。

ウッドマンとシールズ・レナード――追放された「影」が人生に現れる

マリオン・ウッドマンやリンダ・シールズ・レナードが重視した深層心理学的な視点では、自分が受け入れられずに押し込めてきた感情や欲求が、その後の人生に大きな影響を与えることがある。

「良い子」であることを求められた人は、怒りや反抗心、欲望、自己主張といった側面を、自分のなかから追い出そうとする。

親に逆らわない。誰にも迷惑をかけない。相手を傷つけない。自分の要求を押しつけない。

そうした生き方を続けるうちに、怒ることや断ること、何かを強く望むことに罪悪感を抱くようになる。

しかし、押し込められた感情は、心のなかから完全に消えるわけではない。

自分では表現できない怒りを、他人のなかに強く感じ取ることがある。支配的な相手に反発しながらも、なぜかその関係から離れられないこともある。

過去に経験した関係の形が、現在の対人パターンに影響するのである。

その結果、「なぜか同じような相手に支配される」「なぜか同じ場所で消耗する」という経験が繰り返されることがある。

もちろん、こうした反復がすべて無意識の力だけで決まるわけではない。経済的な事情や社会的な立場、相手による支配や操作など、現実の条件も大きく関わっている。

それでも、自分の怒りや違和感を否定してきた経験が、危険な関係に気づくことや、そこから離れる判断を難しくしている場合がある。

追放してきた感情を取り戻すことは、これまで他人に委ねていた人生の選択を、自分自身の手に戻していくことでもある。

なぜ人生そのものが危険になるのか――選択の羅針盤が奪われる

境界線を持てないまま大人になると、人生のさまざまな場面で、自分の安全や利益を守ることが難しくなる。

それは、他人に利用されやすくなるという問題だけではない。

より深刻なのは、自分の感覚を信じられなくなることである。

嫌だと思っても、その感覚を打ち消す。疲れていても、まだ頑張れるはずだと考える。相手の言動に不信感を抱いても、自分の受け取り方がおかしいのではないかと疑ってしまう。

こうした状態では、人生の重要な選択も、他人の期待を中心に決められていく。

職場では、能力や責任の範囲を超えた仕事を引き受けてしまう。恋愛では、相手の要求に合わせるうちに、生活や価値観まで変えてしまう。家族関係では、親の感情や老後の問題を、自分ひとりで背負おうとする。

また、支配的な相手から責められたり、罪悪感を刺激されたりすると、自分の判断を引っ込めてしまうこともある。

自分の人生の中心にいるはずなのに、どこへ進むのかを他人が決めているような感覚になるのである。

こうした危険は、実際に暴力や支配を経験した人々の研究からも見えてくる。

SchorrとGoldner(2023)は、子ども時代に親の世話や感情的な責任を担った女性19人への質的インタビューを行った。参加者たちの語りには、親の感情や欲求に自分を合わせ続けた結果、親子の心理的な境界が曖昧になり、自分自身の感覚や意思を持ちにくくなる経験が描かれている。

そこでは、親を支える責任感と、親から離れようとすることへの罪悪感が深く結びついていた。

自分の人生を選ぶことが、親を見捨てることのように感じられる。自分の幸せを優先すると、誰かを傷つけているような気持ちになる。

こうした心理構造が残ると、人生の選択そのものが罪悪感に支配されやすくなる。

やがて、自分が本当は何をしたいのか分からなくなり、楽しいことにも関心が向かなくなる場合がある。

このような何も楽しくない状態と心の疲弊や、何もしたくない状態が続くときの心理と身体反応は、自分の感情や生命力が長期間抑え込まれてきた経験とも関わることがある。

境界線が確立されている状態とは何か――相手の荷物を返せる

境界線が確立されている状態とは、相手の問題と自分の問題を区別できることである。

相手が怒っているからといって、その怒りをすべて引き受ける必要はない。誰かが困っているときも、自分にできることと、相手自身が取り組むべきことを分けて考えられる。

自分の言動に責任を持ちながら、他人の感情や人生まで管理しようとしない。

それは、相手の荷物を相手に返せる状態とも言える。

たとえば、友人から無理な頼み事をされたとき、自分に余裕がなければ断ることができる。断られた相手が残念がったとしても、その感情まで自分が解決しなければならないわけではない。

恋人が不機嫌になったときも、自分に問題があったのかを考えることはできる。しかし、相手の感情を常に良い状態に保つ責任まで負う必要はない。

この区別ができるようになると、怒りも以前とは違う働きを持ち始める。

怒りは、相手を破壊するための感情ではなく、自分の領域が侵害されたことを知らせる標識になる。

「それは引き受けられない」「その言い方は嫌だ」「今は自分の時間を大切にしたい」。

そうした意思を持ちながら、相手との関係を続けることもできる。

境界線があるからこそ、人は自分を失わずに他者とつながっていけるのである。

境界線は回復できる――城壁ではなく「門」として

境界線は、大人になってからでも育て直すことができる。

幼少期に自分の感情や意思を尊重されなかったとしても、現在の人間関係のなかで、自分の考えを伝え、相手と異なる選択をする経験を積み重ねることはできる。

そのために必要なのは、すべての人を遠ざけるような強い防御を身につけることではない。

境界線とは、城壁ではなく「門」である。

誰を自分の生活に迎え入れ、どこまで関わるのか。何を引き受け、何を断るのか。それを自分の意思で決めるためのものである。

最初から大きな決断をする必要はない。

誰かに頼まれたとき、すぐに返事をせず、自分の都合を考えてみる。嫌だと感じたときには、その感覚を打ち消す前に、何が嫌だったのかを確かめる。疲れている日は予定を断り、自分の身体を休ませる。

こうした小さな選択を重ねることで、自分の感覚を信じる力が少しずつ育っていく。

また、自分の意思を伝えたときに、相手がどのような反応をするのかを見ていくことも重要になる。

こちらの都合を尊重してくれる人もいれば、断られた途端に怒り出したり、罪悪感を刺激したりする人もいる。

その違いを知ることによって、どのような関係が自分にとって安全なのかを判断しやすくなる。

自分の境界線を繰り返し侵害する相手からは、距離を取ることも必要になる。

回復の通過点――境界線を引くと罪悪感が強くなる

境界線を取り戻し始めたとき、以前より罪悪感が強くなることがある。

これまでは、誰かに頼まれれば無条件に引き受けていた。相手が怒れば謝り、困っていれば自分の予定を犠牲にして助けていた。

しかし、自分の意思を優先し始めると、心のなかに不安が生まれる。

「こんなことをしていいのだろうか」「相手を傷つけてしまったのではないか」「自分勝手な人間になってしまったのではないか」。

幼少期から他者に合わせることで関係を保ってきた人にとって、境界線を引くことは、長年の生存戦略を変えることでもある。

そのため、自分を守るために必要な行動であっても、身体が危険を感じることがある。

ただし、罪悪感が生まれたからといって、必ずしも自分が間違った行動をしたとは限らない。

大切なのは、罪悪感そのものを行動の基準にせず、現実に何が起きているのかを確かめることである。

相手を不当に傷つけたのか。それとも、相手の要求を引き受けなかっただけなのか。自分に責任があるのか。それとも、相手が自分の期待どおりにならなかったことに不満を抱いているのか。

こうした区別を少しずつ身につけることが、境界線の回復につながっていく。

日本の親密なパートナーからの暴力(IPV)被害経験者を対象としたKitaら(2022)の質的研究では、23人の女性への面接のうち、トラウマの統合に至った11人の語りが詳しく分析されている。

そこでは、混乱や疲弊を経て、自分自身を理解し直し、生活や人間関係を再構築していく過程が描かれた。回復のなかで重要だったのは、自分が経験した出来事の意味を捉え直し、自分を守る方法を見つけ、自分自身の感覚を再び大切にできるようになることだった。

境界線を取り戻す過程でも、それに似た変化が起こることがある。

これまで自分の責任だと思っていたものが、実際には他人が負うべき責任だったと気づく。傷つけられていた経験を、自分の落ち度だけで説明しなくなる。誰かに認めてもらうことよりも、自分が安心して暮らせることを大切にし始める。

その変化は、一度に起こるものではない。

これまでの関係に引き戻されそうになりながらも、自分の意思を持ち続ける経験を積み重ねていく。

こうしたトラウマからの回復と、安全や身体感覚を取り戻す過程は、境界線を育て直すうえでも大切な土台になる。

自分の人生を、自分の領域として取り戻す

境界線を持てなかった人は、幼い頃から、他人との関係を保つために自分を犠牲にしてきたことがある。

親の機嫌を読み、家族の問題を引き受け、自分の感情を抑え続けた。その生き方によって、かつては危険な環境を乗り越えることができたのかもしれない。

しかし、大人になってからも同じ方法を使い続けると、自分の時間や感情、人生の選択が、他人の期待によって決められていく。

相手が怒れば自分を責め、誰かが困れば自分を犠牲にする。そうして他者との関係を守るほど、自分自身とのつながりが薄くなってしまう。

境界線を取り戻すとは、他人を遠ざけることではない。

自分が何を感じ、何を望み、どこまでなら引き受けられるのかを、自分自身で確かめられるようになることである。

誰かを助けたいと思うなら、自分の意思で助ければいい。相手との関係を続けたいなら、自分を犠牲にし続ける以外の方法を探すこともできる。

そして、理不尽な扱いを受けたときには、傷ついた自分の感覚を信じていい。

境界線が回復していくと、人間関係のなかで生じた問題を、すべて自分の責任として引き受ける必要が少しずつなくなっていく。

相手の感情は相手のものであり、自分の感情は自分のものである。その違いを保ちながら、人と関わることができるようになる。

「全部自分が悪い」という古い判断に疑問を持ち、自分の責任と他人の責任を分けて考え始めること。

そこから、自分の人生を他人の感情に明け渡してきた生き方が、少しずつ変わっていく。

境界線とは、自分と世界を切り離すための壁ではなく、自分自身の領域を守りながら、他者とつながるための門である。

その門を開けるのか、閉じるのか。誰を迎え入れ、どこで距離を置くのか。

これまで他人の期待に委ねてきた選択を、自分の意思で決められるようになることが、境界線を取り戻すという回復の本質なのである。

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井上 陽平

井上陽平(公認心理師・臨床心理学修士)。
トラウマ・解離・PTSD・愛着障害を専門とする心理カウンセラー。
児童養護施設、情緒障害児施設、精神科クリニックでの臨床経験を積み、
心身反応(フリーズ・過覚醒・離人感)への介入や、
複雑性トラウマ、対人関係、境界線の問題に重点的に取り組む。

研究テーマは「複雑性トラウマの身体反応」「解離と自己構造」「愛着スタイル」「虐待と対人関係のパターン」。現在は「こころのえ相談室」にてトラウマ専門のカウンセリングを提供。書籍の企画・執筆に関するご依頼も承っております。

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