人間の脳は、ポール・D・マクリーンの仮説によれば、生物が進化する過程で発展してきたとされています。この仮説によれば、最も古い脳は反射脳(延髄、脳幹)であり、次に古いのが情動脳(大脳辺縁系)と理性脳(大脳新皮質)に分類されます。人間は進化とともに新しい脳を獲得し、この3つの脳がバランスを取れていると、人間らしさを発揮することができます。
反射脳は、基本的な身体機能の調節を担っており、自律神経によって動かされます。情動脳は、本能的な感情と行動を制御する役割を持っています。そして、理性脳は、論理的思考や学習、言語機能などを担当し、人間の高次の認知機能を担っています。
これらの脳がバランスを保っていると、人間はよりバランスの取れた感情的な人格を持つことができます。一方、このバランスが崩れると、不安や恐怖、怒り、欲求不満などの問題を引き起こすことがあります。このような場合は、個々の脳を理解し、トレーニングすることでバランスを取り戻すことができます。
人間の脳は複雑であり、まだ完全に解明されていない部分が多く残っています。しかし、マクリーンの仮説は、人間の脳の基本的な構造と役割を理解するための枠組みとして広く受け入れられています。
理性脳と情動脳
健康な人は、理性脳(大脳新皮質)と情動脳(大脳辺縁系、脳幹)のバランスが取れており、バランスが取れているために、適切に感情を制御することができます。しかし、不幸にもトラウマを経験してしまった人は、トラウマが過去に起きた出来事として捉えられることはなく、現在進行形で影響を与え続けています。トラウマは、脳内の扁桃体、前頭前野、海馬などに影響を与え、全身に影響を及ぼし、症状は複雑で多岐にわたります。
特に、子どもの頃から、体の中にトラウマが刻まれている人が、常に脅威に反応しなければならない状況に置かれると、生存することに注意を集中するため、理性脳よりも情動脳に支配されるようになります。環境の変化に対して、防衛的な機能が働くため、神経が繊細に反応し、全身は慢性的に収縮する方向に向かいます。このため、足がすくんだり、体が凍りついたりして外の世界が怖くなり、不意を突かれると驚愕反応や苛立ちが生じます。
トラウマが脳や身体に与える影響
過去に被害に遭った人は、トラウマ的な脳になる傾向があります。このため、情動を司る神経系は、脅威を察知するとすぐに警戒モードに入り、体はすぐに闘争・逃走状態になり、強い緊張が走るようになります。その結果、恐怖から身動きが取れなくなる人もおり、体が凍りつくか、虚脱状態に陥ることがあります。刺激に対して、体が過剰に反応するため、自分自身が意図しない場面でも、過剰に反応して、体が凍りついたり、震えたりすることがあります。このような状態では、理性よりも情動が優位になり、感情をコントロールすることが困難になり、正常な判断を下すことが難しくなります。
トラウマが慢性化すると、情動脳が過剰に反応して生存本能が働くため、脅威を常に感じ、不安や恐怖に苛まれる状態が続きます。このため、周囲の環境に対して敏感になり、常に警戒心を持っている状態に陥ります。また、トラウマ体験から逃げ出すことを考えるようになり、現実から離れて妄想に走ったり、自分自身を縛るような行動をとることがあります。
情動脳が過剰に働くと、警戒心が高まり、先回りして危険を回避しようとするため、過剰に先読みし不安になったり、音や人の気配に反応してしまうことがあります。また、理性脳が働きにくくなるため、客観的に自分自身を見ることが難しくなり、冷静に判断することができなくなってしまいます。トラウマの影響によって、脳のバランスが崩れるため、生活において困難に直面することがあります。
生存を司る脳の発達
トラウマの影響から、脅威に対処するために生存戦略に関連した脳の発達が促進されると、社会と交流するために必要な脳の発達が不十分になります。この生存戦略は、最悪の状況を想定した生き方になり、想定外のことが起きても対処できるように、常に準備をしておく必要があります。そのため、人々は自然災害、食糧危機、インフレ、治安の悪化など、さまざまな脅威に対して心配し、細かいことまで気にかけるようになります。これは、怖い目に遭わないための自己防衛本能が働いている結果であり、自己保護のための生存戦略として機能しています。
過剰な警戒心
過去の虐待やDVのトラウマから、潜在的な脅威に備えるようになった人は、常に警戒している状態が続くため、頭の中で常に警告音が鳴っているような感覚があります。周囲の環境を注意深く観察し、見慣れないものがあるかどうかをチェックすることが習慣になっています。
このような状態において、体も過緊張状態になっています。危険が迫った場合には、自己防衛反応が出て、闘争・逃走反応、または凍りつき反応が起こります。つまり、過去のトラウマからくる防衛反応が、彼らが常に緊張している理由の一つであると言えます。虐待やDVなどのトラウマを持つ人々は、その後の人生でそのトラウマから抜け出すことが難しく、常に自分を守ることに焦点を当てることが多い傾向にあります。
闘争・逃走反応
人々が差し迫った危険的な状況に直面すると、生存を確保するために戦うか逃げるかの反応に切り替わります。この反応は「闘争・逃走反応」として知られており、人間が本能的に持つ自己防衛反応の一つです。この時、人々は全力で行動し、そのために身体の機能が大きく変化します。
この反応が起こると、交感神経系が活性化し、心拍数や血圧が上がり、筋肉は非常に緊張します。このため、通常では発揮することができないような力を発揮することができます。この反応は、自己防衛反応の一つであるため、危険が回避されるまで持続します。その後、交感神経系の活性化は徐々に減少し、副交感神経系が優位になることで、身体の緊張が解け、心身ともにリラックスした状態に戻ります。
過剰な情報処理
情動脳は、情動や感情を処理する脳の領域であり、脳のフィルターが適切に機能しない場合、感覚過負荷の状態に陥ることがあります。つまり、情報処理が過剰になってしまい、自分で意識的に何かを考えることができなくなる状態が起こります。頭の中に大量の情報が入ってきて、それを勝手に分類してグルグルと思考が回ることがあります。
このような状態になると、都市型生活や集団場面において、過剰な情報処理努力が必要になり、そのために脳が疲れてしまいます。過度な情報処理が続くと、集中力や判断力が低下し、ストレスや疲労感を引き起こすことがあります。これは、情動脳が情報を適切に処理できなくなり、脳に余分な負荷がかかってしまうことが原因です。したがって、情動脳の過剰な刺激を避けることが、ストレスを軽減するために重要なのです。
あらゆる刺激に敏感
人間の体は、危険や生命の危機を感知することができます。このような状況になると、脳は自然と次の脅威に備えるために、人の気配や足音、息遣い、声のトーン、目つき、表情、話の内容などを敏感に受け取り、頭の中で分類していきます。これは、自己防衛本能の一つである警戒反応の一環です。
さらに、人に見られていると感じると、緊張が強まり、感情に支配されて思考が混乱することがあります。人々は社会的存在であるため、自分が他人にどのように見られているかを意識することがあります。そのため、他人から注目される状況では、自己表現や自己開示を制限したり、あるいは緊張や不安を感じることがあります。
過敏さと鈍感さ
複雑なトラウマを経験した人々は、本来は危険でない情報であっても、迫りくる脅威として感じてしまうことがあります。このため、過覚醒や凍りつき反応が出て、恐怖や怒り、混乱した状態に陥ることがあります。つまり、トラウマによって、脳が過剰に刺激されることで、状況を適切に判断することが困難になってしまうのです。
一方、周りの人にとって危険な状況でも、トラウマを経験した本人にとっては、感覚が鈍感になっているため、平然とやり過ごせることがあります。これは、トラウマ体験によって、脳が本来の感覚を鈍らせてしまうためです。そのため、周りの人が危険な状況を認識しているのに対して、本人はそれに気づかず、平然としていることがあります。
先読み癖
トラウマを経験した人々は、急なことや想定外のことが起きると、対応できなくなり、パニックや驚愕反応、不動反応、感情のコントロールが難しくなることがあります。つまり、トラウマが体に刻まれているため、ストレスを受けた場合に、過剰な反応が出る可能性があります。
このような状態から逃れるために、トラウマを経験した人々は、次の変化に備えて、周りを警戒し、先読みして行動するようになります。そして、あらゆるパターンやシチュエーションを想定するようになり、こういうパターンではこうなるとか、ああいうパターンではこうするとか、次こうなったらこうするとか、もしこう聞かれたならこう返すとか考えるようになります。これによって、想定外の出来事に対しても、迅速かつ効果的に対処できるようになります。
また、自分の言動が相手にどのような影響を与えているかを考えることがあります。トラウマを経験した人々は、自分自身がトラウマを経験したことによって、他人に与える影響にも敏感になる傾向があります。
注意・集中の問題
落ち着いた場所で過ごしている時は、興味や関心のあることには注意が向いて、活発な行動や思考が見られ、過集中になることがあります。つまり、ストレスの少ない環境であれば、自然と集中力を発揮することができます。
また、落ち着いた場所では、普段よりも何倍もの力を発揮することができます。ストレスや不安がない環境であるため、体がリラックスし、心も穏やかな状態になります。このような状態であれば、より多くのエネルギーや創造性を発揮することができるため、自己実現や目標達成にもつながることがあります。
しかし、都市型生活でノイズが多い場所では、頭の中に大量の情報が入ってきて、注意散漫になり、集中力が低下することがあります。周りからの刺激が多すぎて、脳が情報過多に陥るため、必要な情報に集中することができなくなってしまうのです。
問題解決力
不快な状況にいるときは、情動脳が働いているため、体の緊張が強くなり、頭の中でどうしようか、どうしたいかと悩んで、すぐにでもなんとかしたいと思うことがあります。つまり、ストレスがかかる状況下では、脳は緊張状態に陥り、理性的な判断ができなくなる傾向があります。
人間関係に問題がある場合は、問題解決するために話し合って、納得できる答えが見つかると、すっきりすることがあります。つまり、問題解決に向けて行動することで、ストレスを軽減し、リラックスした状態に戻ることができます。
ただし、問題解決に慣れている人が、問題を解決できずに打つ手がなくなると、途端に無力になってしまうことがあります。これは、自分にとっての正しい解決策が見つからないため、脳が混乱し、ストレスがかかり続けるためです。
過覚醒
危険を感じると、情動脳が強く反応し、交感神経が過剰になり、過覚醒状態に陥ることがあります。この状態では、前頭葉の実行機能が十分に機能しなくなり、判断力や思考力が低下します。つまり、ストレスがかかると、脳が機能不全に陥り、理性的な判断ができなくなる傾向があります。
過覚醒状態のときは、気持ちが落ち着かなくなり、周囲が見えなくなって、リスクを考えずに無計画な行動を取ることがあります。また、恐怖に怯えて、感情が鎮まらず、悶々とした気持ちになることがあります。さらに、苛立ちや焦り、睡眠障害などの症状も現れることがあります。
また、過覚醒状態になると、能力の限界に対する認識を欠き、理性的な判断を求めても難しくなります。つまり、ストレスがかかると、自分自身を客観的に見ることができず、自分の行動や思考に対しても、冷静な判断を下すことができなくなる傾向があります。
過剰な同調性
トラウマを抱える人は、過去に経験したトラウマを再び体験しないように自己防衛の仕組みが働くことがあります。そのため、外の世界では良い人を演じて、周囲の人々から好かれるようにしようとします。具体的には、共感性が高くなり、相手の感情や苦痛を自分のこととして感じる傾向があります。また、空気を過剰に読んだり、相手に過度に同調したりすることも多いです。
このような行動は、周囲の人々から好意を得ることができますが、自分自身の感情や思考を抑圧することがあるため、長期的には精神的な健康に悪影響を与えることがあります。また、自己防衛のために、トラウマを再び体験しないように過剰なストレスを抱えることもあります。
解離・視野狭窄
恐怖に体が凍りついて、感覚が麻痺すると、解離症状が現れることがあります。解離症状とは、自己の感覚、思考、感情、記憶などが切り離された状態になることを指します。具体的には、トラウマ体験の記憶を無くしたり、自分自身が現実から離れたような感覚になったり、周囲の出来事や状況がよく分からないもどかしい感覚に陥ることがあります。解離症状が現れると、自分の周りに膜(ヴェール)があるような感覚になり、自分と外の世界が分かれているように感じます。また、意識がぼんやりしたなか、生きている実感が乏しくなり、身体感覚や感情が麻痺します。
ストレスホルモン
複雑なトラウマを抱えている人は、周りの環境の変化に敏感で、交感神経系が活性化するためストレスホルモンであるコルチゾールが通常よりも高い状態になっています。強いストレスを感じたときには、この状態が維持され、交感神経系に支配されて感情の調節が難しくなることがあります。また、ストレスが収まった後でも、通常の人よりもストレスホルモンが下がりにくく、不快感が続くことがあります。長期にわたってトラウマが慢性化すると、コルチゾールが枯渇して副腎疲労になり、不安感や倦怠感、食欲不振、無気力など、日常生活に支障が生じることがあります。
不快な状況が続くと
不快な状況に曝されたとき、逃げることができず、問題を解決できない状況に陥ると、落ち着かなくなり、イライラし始めます。この状況で何もできずにいると、感情が爆発したり、精神が崩壊したりすることがあります。そして、その後、気が狂ったように、怒り、攻撃性、恨み、苦痛、恐怖、悲しみの感情が混乱し、絶望の淵に陥ることがあります。このような極限状態では、自分自身を制御できなくなっており、感情が暴走しています。
被害妄想・加害不安
会社や学校のような組織には、人間関係が複雑で、苦手な人がいることがあります。このような状況では、自分自身を守るために、自分が被害に遭っているという妄想や、自分が加害行為をしてしまう不安に敏感になることがあります。そのため、苦手な人との関わりに対して、闘争・逃走モードに入り、トラブルメイカーになりやすく、人間関係が長続きしないことがあります。
刺激を強く求める
環境の変化に敏感な人は、状況に適応する能力が高く、柔軟に対応することができます。しかし、同時に傷つきやすいところがあり、ストレスに弱いという特徴もあります。活動的な人の場合、知的好奇心が強く、自分が興味を持ったことにはとことん打ち込み、刺激を求めに行くことが多いです。つまり、新しいことに興味を持ち、新しい体験をすることで、自分自身を成長させることができます。
トラウマケア専門こころのえ相談室
公開 2021-02-14
論考 井上陽平
