心に穴が空いたような感覚の正体|トラウマが残す空虚感と解離

闇と光の狭間 複雑性PTSD

幼い頃から逃げ場のない恐怖にさらされ、暴力や支配、無視、情緒的な見捨てられを繰り返し経験すると、心はその苦痛を抱えきれなくなることがあります。

助けを求めても誰も来ない。泣いても慰められず、怒りを感じても表現できない。自分を守ってくれるはずの人が、同時に恐怖を与える存在でもある。そのような環境では、感情を切り離し、現実から心理的に遠ざかることが、生き延びるための方法になる場合があります。

こうした深刻なトラウマを抱えてきた人のなかには、心の奥に底知れない空洞が広がり、自分という存在が内側から失われていくような恐怖を経験する人がいます。それは日常的な寂しさや、一時的に何かが満たされないという感覚よりも、はるかに深いところで起こる苦痛です。

自分が何を感じているのか分からず、他者とのつながりも現実の手触りも失われ、心の内側には、どこまでも落ちていくような暗闇が広がっている。

精神分析で語られる「心のブラックホール」は、こうした自己のまとまりが脅かされる体験や、底知れない空虚さを理解するための比喩です。

心の中に開いた穴は、単に愛情や喜びが不足しているという問題ではなく、圧倒的な恐怖のなかで、感情や身体感覚、自分自身とのつながりを切り離さざるを得なかった経験と結びついている場合があります。

その空洞は、ときに強い引力を持つようになります。人の声の調子、冷たい視線、沈黙、突然の物音などが過去の恐怖と結びつくと、それまで保たれていた現実感が崩れ、かつての孤独や絶望が一気に押し寄せる。

今いる場所も、目の前の相手も、かつて自分を傷つけた人とは違うと分かっていても、身体は逃げ場のなかった時間へ引き戻されたように反応することがあります。

そして、いったんその暗闇に飲み込まれると、誰かがそばにいても、その存在を安心として感じ取れなくなる場合があります。自分が生きているという実感さえ薄れ、世界は遠く、色彩を失い、まるで自分だけが別の次元に閉じ込められたように感じられる。

そこでは「寂しい」「悲しい」という言葉だけでは届かない、存在そのものの孤立が生じています。

心のブラックホールという比喩が捉えようとしているのは、こうした深刻な自己の空洞化と、そこへ引きずり込まれるような恐怖です。なぜ過去の体験が、現在の自分の存在感や人間関係にまで影響するのか。その構造を理解するには、トラウマによる解離、感情の切り離し、そして誰にも受け止められなかった幼少期の関係体験まで目を向ける必要があります。

心のブラックホールとは|感情も記憶も飲み込む見えない力

精神分析家ジェームズ・グロットシュタイン(James S. Grotstein)は、1990年の論文で、心の内側に存在する「ブラックホール」という概念を論じました。

グロットシュタインが主に扱ったのは、重い精神病理において、自己のまとまりや意味が失われ、底知れない虚無へ引きずり込まれるような体験です。彼は、発達早期の対象との関係が深く損なわれることと、心の内部に生じる空洞との関係を精神分析的に考察しました。

この概念は医学的な診断名ではなく、トラウマを経験したすべての人に現れる症状でもありません。しかし、深刻な情緒的剥奪や解離を抱える人が経験する、自己の存在が崩れていくような恐怖を理解するうえで、示唆に富むものです。

複雑なトラウマの影響を強く受けている人は、心の奥にある恐怖や絶望を、普段から意識しているとは限りません。

外の世界と関わるための自分を保ち、仕事や日常の役割をこなしていても、内側では言葉にできない感情や、思い出したくない体験から距離を取っていることがあります。

ところが、ある瞬間、人の視線や声の調子、沈黙の長さ、匂いや物音などをきっかけに、その均衡が崩れることがあります。

それまで抑え込まれていた恐怖や怒り、悲しみが急に強まり、頭では現在の出来事だと理解していても、感情は過去の時間へ引き戻されたようになる。

自分の意思では抵抗できないほどの混乱に襲われ、相手の言葉を理解することも、自分の気持ちを整理することも難しくなります。

このとき、本人は単に感情が激しくなっているというより、自分という存在を保つための足場そのものが失われていくような恐怖を経験している場合があります。

ブラックホールの引力とは、こうした内側から世界が崩れていく感覚を象徴するものです。

ブラックホールは「感じることを許されなかった体験」でできている

心のブラックホールを考えるとき、忘れられない記憶だけに注目すると、その本質を見失うことがあります。

深刻なトラウマのなかでは、出来事を十分に理解することも、自分の感情を表現することも難しくなる場合があります。

怖かった。悲しかった。誰かに助けてほしかった。本当は怒りたかった。

しかし、そうした感情を表現すること自体が危険な家庭では、子どもは自分の内側に生まれた反応を抑えるようになります。

泣けば怒られ、怖がれば弱いと責められる。親に腹を立てれば、さらに強い支配や拒絶を受ける。助けを求めたことで、かえって傷つくこともあります。

そのような環境では、子どもは感情を十分に感じ、整理し、誰かに受け止めてもらうという経験を積みにくくなります。

怖いという感覚を持ちながら、その恐怖を表現できない。怒りを感じても、その怒りを相手へ向けることができない。

こうした状態が長く続くと、自分の感情から距離を取ることが、生活を維持するための方法になる場合があります。

2023年にSchorrとGoldnerが発表した質的研究では、子ども時代に親の世話や感情的な支えを担ってきた成人女性19人へのインタビューが分析されました。

そこでは、参加者が自分自身の体験を語る際に、「深い穴」「奈落」「空白」といった表現を用いていたことが報告されています。

親の要求に応え続けながら、自分自身は十分に守られず、感情や欲求を後回しにしてきた。その経験が、自己の価値や存在感を失うような感覚と結びついていました。

また、他者を支える役割を果たしていた一方で、自分が何者なのか分からなくなるという、自己のあり方の深い揺れも語られています。

この研究は、親の役割を担わされた人々を対象としたものであり、心のブラックホールの原因を一つに特定したものではありません。

それでも、自分の感情や存在を十分に受け止めてもらえなかった経験が、心の深い空虚さと結びつくことを理解する手がかりになります。

ブラックホールとは、単に苦しい記憶が詰まっている場所というより、かつて十分に感じることも、誰かと分かち合うこともできなかった体験を象徴しているのかもしれません。

そのため、過去を意識的に思い出そうとしなくても、当時の感情が現在の人間関係や身体反応のなかに現れることがあります。

心の穴が埋まらない理由|何も感じられないという深い空虚感

心のなかの空洞は、悲しみや孤独という言葉だけでは十分に表現できない場合があります。

深刻な情緒的剥奪や解離を経験してきた人は、何かを失って悲しんでいるというより、自分が何かを感じることそのものが難しくなっている場合があります。

嬉しいはずなのに実感がない。誰かに大切にされても、その温かさが自分の内側へ届かない。

相手の言葉は理解できるのに、自分の感情が動かない。そこにいるのは確かに自分なのに、自分が生きているという感覚が薄れている。

こうした状態では、誰かに愛情を向けられても、仕事で成果を出しても、その経験が自分自身のものとして感じられにくくなることがあります。

2021年にMiller、Townsend、Grenyerが発表した質的研究では、境界性パーソナリティ障害を持つ15人へのインタビューを通して、慢性的な空虚感が調べられました。

参加者たちは、空虚感を、自分自身や他者とのつながりが失われる感覚、感情が麻痺した状態、内側に何もないような体験として語っていました。

多くの参加者は、この空虚感を、孤独や絶望、抑うつ、解離とは区別して経験していました。

空虚感には、それらと重なる部分がありながらも、独特の苦しさがあるのです。

この研究の対象は境界性パーソナリティ障害のある人たちであり、空虚感を抱える人すべてに同じ診断が当てはまるわけではありません。

しかし、心の穴が埋まらないという感覚が、単に人との交流や刺激が不足しているという問題だけでは説明できないことを示しています。

他者とのつながりを求めていても、その関係を自分の内側で実感できない。何かを達成しても、喜びが自分のものとして感じられない。

そのため、外側から与えられるものだけでは、空洞が埋まったという感覚を持ちにくくなる場合があります。

ここにあるのは、何かを持っていない苦しさよりも、自分自身とのつながりを失っている苦しさです。

光に憧れながら、闇を生きる|二つの世界に引き裂かれる感覚

深刻なトラウマによって現実感や自己の存在感が損なわれているとき、外の世界と自分が生きている世界が、まったく別のものに感じられることがあります。

街を歩けば、家族連れや恋人たちが笑い合い、友人同士が何気ない会話を楽しんでいる。

その光景は目の前にあるはずなのに、自分とは関係のない遠い世界の出来事のように感じられる。

人々の笑い声も、街の光も、風景の色も目や耳には届いている。それでも、その世界に自分自身が参加しているという実感が持てないのです。

まるで世界が二重構造になっているような感覚です。

一つは、多くの人が生活している、温かさや喜びのある世界。もう一つは、自分だけが閉じ込められている、色彩の薄い世界です。

その二つは同じ場所に重なっているのに、決して交わらない。

このような存在の孤立は、単に人と会う機会が少ないという問題ではありません。

誰かがすぐそばにいても、その人とのつながりを感じられない。優しい言葉をかけられても、心の奥まで届かない。

誰かに抱きしめられたいと思いながら、実際に近づかれると身体が緊張する。愛されたいという願いがあっても、自分が愛されているという実感を持てない。

こうした矛盾が、心の深いところで続いている場合があります。

それでも、闇のなかで生きる人が、必ずしも光を忘れているわけではありません。

本当は自由に生きたい。誰かを信じ、安心できる場所で暮らしたい。自分もほかの人たちのように、何気ない日常を楽しみたい。

その願いが残っているからこそ、現在の自分と外の世界との隔たりが、いっそう苦しく感じられることもあります。

光へ近づきたいという願いと、そこへ戻れないように感じる絶望が、同じ心のなかに存在しているのです。

希望と絶望のはざまで|回復したと思った翌日に崩れる理由

深刻なトラウマや解離を抱えていると、昨日まで感じられていた安心が、翌日にはまったく実感できなくなることがあります。

人と話せるようになり、少し気持ちが落ち着いた。これから生活を立て直せるかもしれないと思い、未来について考えることもできた。

ところが、何かの刺激によって過去の恐怖が強まると、その安心感がすべて失われたように感じられることがあります。

昨日の自分が抱いていた希望を、今の自分は信じられない。

良くなってきたと思ったのに、また奈落の底へ落ちてしまった。これまで積み重ねてきたものが、すべて無駄になったように思える。

こうした揺れが続くと、回復そのものを信じられなくなる場合があります。

複雑なトラウマでは、過覚醒、強い不安、感情の麻痺、解離などが、状況によって異なる形で現れることがあります。

また、長いあいだ抑えてきた感情に少しずつ気づくようになると、それまで感じられなかった悲しみや怒りが強まる場合もあります。

ただし、苦痛が増したことを、必ず回復が進んでいる証拠として受け取ることはできません。心身の負担が大きすぎる場合には、治療や生活環境を調整する必要があります。

回復とは、常に感情が穏やかになり続ける過程ではありません。

過去の恐怖が再び強まったとしても、それまでの変化がすべて失われたとは限らないのです。

以前なら強い感情に飲み込まれるだけだったところから、自分が何に反応しているのかを少しずつ理解できるようになる。

誰にも助けを求められなかった状態から、苦しいときに連絡できる相手や、安全に過ごせる場所を持てるようになる。

そうした変化もまた、希望と絶望のあいだで進んでいく回復の一部です。

ブラックホールに引きずり込まれる身体|フリーズと解離

過去の恐怖が強く呼び起こされたとき、身体が突然動かなくなることがあります。

全身が硬直し、呼吸が浅くなる。胸が締めつけられ、頭の中が真っ白になる。相手の言葉が聞こえていても、その意味を理解できなくなる。

強い脅威にさらされたとき、人にはフリーズ反応と呼ばれる防衛反応が生じる場合があります。

逃げることも抵抗することも難しい状況で、身体の動きが抑えられたり、声が出なくなったりすることがあります。

さらに解離が重なると、周囲の音が遠く感じられたり、自分の身体が自分のものではないように感じられたりする場合があります。

自分がそこにいるはずなのに、どこか遠くから自分を眺めているような感覚。自分の声が自分のものではなく、目の前の出来事が現実ではないように感じられることもあります。

こうした状態は、意図的に選んでいるとは限りません。強いストレスやトラウマに関連して、心身が自動的に示す反応である場合があります。

2022年にOpsvikらが発表した質的研究では、複雑な解離症状を抱える16人へのインタビューを通して、日常生活で「今ここにいる」という感覚が、どのように経験されるのかが調べられました。

参加者たちは、自分の感覚が断片化していることや、現在の出来事へ十分に関われないこと、自分の人生に存在している実感を持つ難しさを語っていました。

その一方で、現実から距離を取ることは、耐え難い体験から自分を守るためにも働いていました。

現実のなかにいることが苦しい。しかし、そこから離れ続けると、自分の人生を十分に生きることが難しくなる。

そこには、深刻なトラウマを抱えた心の複雑な矛盾があります。

凍りつき反応(フリーズ)とは何か|トラウマで心身が止まる仕組みと回復では、逃げることも抵抗することもできなかったときの身体反応について詳しく扱っています。

また、ストレスのあとに急な眠気や虚脱感が現れる場合については、「嫌なことがあると眠くなる病気」:解離による眠気とトラウマ反応でも解説しています。

眠気や意識が遠のく状態には、解離以外の身体的な原因が関わることもあるため、症状に応じた確認も必要です。

なぜブラックホールから「戻れない」と感じるのか

「もう戻れない」「ここから抜け出す方法が分からない」「このまま壊れてしまう気がする」。

強いトラウマ反応や解離が生じているとき、こうした恐怖に襲われることがあります。

現在の自分は、すでに危険な家庭から離れている。かつて自分を傷つけた相手も、今は目の前にいない。

それでも、過去の恐怖が強く呼び起こされると、身体は、今も逃げ場のない状況に置かれているように反応する場合があります。

頭では安全だと理解していても、身体は強く緊張し、言葉が出なくなる。

時間感覚や現実感が変化することもあり、現在の自分と、かつて傷ついた子ども時代の自分が、同じ身体のなかで重なっているように感じられることがあります。

そのとき、過去に感じた無力感や絶望が、今の自分の感情として広がっていく。

助けを求めても誰も来なかった。逃げようとしても逃げられなかった。どれほど泣いても、苦しさが終わらなかった。

そうした経験と結びついた恐怖が強まると、今の苦しさも永遠に続くように感じられる場合があります。

しかし、「もう戻れない」という感覚は、現在の心身の状態を反映しているものであり、未来が決まっていることを意味するものではありません。

この状態では、無理に過去を思い出そうとしたり、理屈で自分を説得したりすることが、かえって負担になる場合があります。

まず、自分が現在どこにいて、何が起きているのかを少しずつ確かめることが大切になります。

今いる場所を見渡す。周囲の物や光を確かめる。安全な相手がそばにいるのであれば、その人の声や存在を手がかりにする。

そうした方法によって、過去の恐怖と現在の状況を少しずつ区別しやすくなる場合があります。

ただし、解離が強いときには、身体感覚への注意や呼吸の調整が負担になることもあります。本人が安全に取り組める方法を選ぶことが重要です。

闇と向き合い、光を見出す|心の再生は何から始まるのか

心のブラックホールに飲み込まれないためには、自分に何が起きているのかを理解するとともに、自分の感情や身体との関係を少しずつ取り戻していくことが大切になります。

深刻なトラウマを抱えてきた人は、長いあいだ、自分の感情を感じること自体が危険だった場合があります。

怖いという感覚を表現できず、怒りを出せず、助けを求めることさえ諦めなければならなかった。

そのため、安心できる環境に移ったとしても、自分の感情をすぐに受け止められるとは限りません。

何を感じているのか分からない。身体の感覚が薄い。心の奥にあるものへ近づこうとすると、強い恐怖や虚脱感が生じる。

こうした状態では、過去の記憶を詳しく掘り下げることよりも、現在の生活で安全に過ごせる時間や関係を増やしていくことが重要になる場合があります。

自分の反応を言葉にすること。身体が緊張しやすい場面を知ること。安心できる人との関係のなかで、少しずつ自分の感情を表現できるようになること。

そうした経験を通して、これまで切り離されていた感情や身体感覚とのつながりが変化していく場合があります。

ただし、回復は常に感情を強く感じられるようになることを意味するわけではありません。

感情が戻ってくることで苦痛が強まる場合もあり、その人が耐えられる範囲を尊重することが必要です。

心の穴を無理に埋めようとするよりも、その穴が生まれるほどの経験をしてきた自分の心を、少しずつ理解していくこと。

そこから、自分自身との関係が変わり始める場合があります。

身体の緊張と過去の関係体験については、身体は、魂が耐えてきた歴史を語っている|固まった身体が語るトラウマと回復のプロセスでも詳しく扱っています。

自己表現という回復|言葉にならなかった感情を取り戻す

長いあいだ自分の感情を抑えてきた人にとって、本音を表現することには強い不安が伴う場合があります。

子どもの頃、自分の気持ちを伝えると怒られたり、否定されたりした経験があると、大人になってからも、他者へ感情を伝えることが危険に感じられることがあります。

誰かに分かってほしいと思っていても、いざ話そうとすると言葉が出てこない。

何を伝えたいのか、自分でも分からなくなる。話し始めた途端に胸が苦しくなり、頭の中が真っ白になることもあります。

そのような人にとって、自分の感情を少しずつ言葉にできることには、大きな意味があります。

カウンセリングのなかで、これまで誰にも話せなかった気持ちを伝える。ノートに、整理できない感情を書き出してみる。音楽や絵、写真などを通して、言葉にならない内面の感覚を表現する。

こうした方法は、必ずしもすべての人に合うわけではありません。

しかし、自分の内側で起きていることを、無理のない形で外へ表現できるようになると、これまで曖昧だった感情に輪郭が生まれることがあります。

自分は本当は怖かったのだと気づく。誰かに怒っていたことを認める。助けてほしかった気持ちが、長いあいだ残っていたことを理解する。

そのように、自分の感情を少しずつ理解できるようになることで、自分自身とのつながりが変化する場合があります。

また、安心できる相手に感情を受け止めてもらうことは、これまで一人で抱えてきた苦しさを、誰かと分かち合える経験にもなります。

自己表現は、過去の出来事を正当化するためのものではありません。失われていた自分の感情を、現在の自分のものとして取り戻すための行為でもあります。

自分の内側にあるものを、少しずつ外の世界へ差し出せるようになること。

そこには、かつて切り離されていた自分自身と、他者との関係を結び直していく可能性があります。

心のブラックホールと共に生きる|闇に飲み込まれない距離を持つ

深刻なトラウマからの回復では、過去の出来事をすべて忘れることや、苦しい感情が二度と現れなくなることだけを目標にする必要はありません。

過去の恐怖や孤独が、何かをきっかけに強まることはあります。

しかし、以前ならその感情に完全に飲み込まれていたところから、今は少し距離を取れるようになる場合があります。

ブラックホールの引力が強まる前に、自分の身体の変化へ気づく。誰かの言葉に傷ついたとき、その苦しさを自分だけで抱え込まずに済む。

強い解離や絶望が現れたとしても、それが過去の経験と関わっている可能性を理解し、現在の安全を確かめる方法を持てるようになる。

こうした変化は、外から見れば小さなものかもしれません。

しかし本人にとっては、ブラックホールとの関係そのものが変わっていく経験になります。

かつては、恐怖が押し寄せると、それだけが世界のすべてになっていた。

今は、恐怖を感じながらも、現在の生活や人間関係が存在していることを、少しずつ確かめられるようになる。

自分のなかにある暗闇を感じながらも、それ以外の感情や経験が存在していることを理解できるようになる。

そのように、心の奥にあるものとの距離を持てることが、回復の重要な部分になります。

回復とは、闇を完全に消し去ることよりも、闇に飲み込まれずに生きられる距離を育てていくことでもあります。

心のブラックホールがあるように感じられたとしても、それが自分という存在のすべてではありません。

自分の意思で選べる生活、安心できる人間関係、心地よく過ごせる時間を少しずつ持てるようになると、かつてはすべてを飲み込んでいた空虚さが、生活全体を支配しなくなる場合があります。

まとめ|心の穴が埋まらなかった理由と、闇の奥にある光

心のブラックホールは、深刻な情緒的剥奪やトラウマによって、自己の存在感や他者とのつながりが大きく損なわれる体験を理解するための、精神分析的な比喩です。

幼少期から逃げ場のない恐怖にさらされ、自分の感情を十分に表現できなかった人は、苦痛を感じないようにすることや、現実から心理的に距離を取ることによって、生き延びてきた場合があります。

しかし、その適応が長く続くと、自分自身の感情や身体とのつながりが薄れ、心の奥に底知れない空洞が広がっているように感じられることがあります。

何かの刺激によって過去の恐怖や孤独が強まると、その空洞は突然、強い引力を持ち始める。

それまで保たれていた現実感が崩れ、世界が遠く感じられ、自分自身が消えてしまうような恐怖に襲われる場合があります。

また、外の世界が明るく見えるほど、自分だけが闇のなかに取り残されているように感じることもあります。

本当は人とつながりたい。安心して誰かを好きになり、自分の人生を自由に生きたい。

その願いが残っていても、身体や心が過去の恐怖に強く反応していると、そこへ近づくことが難しくなる場合があります。

しかし、過去のトラウマによって現在の生活が深く傷ついていることと、これからの人生がすべて決まっていることは、同じではありません。

自分の内側で何が起きているのかを理解し、安心できる関係のなかで、少しずつ感情や身体とのつながりを取り戻していくことはできます。

長いあいだ誰にも受け止めてもらえなかった恐怖や悲しみを、現在の自分が少しずつ理解していく。助けを求めてもよい関係を持ち、自分の気持ちを表現できる時間を増やしていく。

そうした経験を通して、心のブラックホールとの関係が変わっていく場合があります。

闇を抱えて生きてきた人は、長いあいだ、光のある世界が自分とは無関係な場所のように感じられていたかもしれません。

けれど、かつての恐怖や孤独が、自分の人生のすべてを占め続けるとは限りません。

傷ついた経験を、無理に成長や希望へ変える必要もありません。苦しかった時間は、その苦しさを十分に理解されてよいものです。

そのうえで、これから何を感じ、誰とつながり、どのような生活を送りたいのかを、自分自身で選び直していくことはできます。

心の穴が埋まらなかった背景には、何かを手に入れられなかったこと以上に、自分の感情や存在を十分に受け止められないまま、生き続けなければならなかった時間が関わっているのかもしれません。

これまで心の奥にあった闇を、すべて消し去る必要はありません。

その闇と距離を取りながら、自分が今ここに存在していることを、少しずつ実感できるようになること。

誰かとの関係のなかで、自分の言葉や感情が受け止められ、これまで遠い世界のものだった温かさや安心を、現在の生活のなかで感じられるようになること。

心のブラックホールの奥にある苦しみを理解し、その引力に飲み込まれずに生きられるようになること。

そこから、長いあいだ失われていた自分自身の人生を、少しずつ取り戻していく道が始まるのです。


参考文献

  1. Grotstein, J. S. (1990). The “Black Hole” as the Basic Psychotic Experience: Some Newer Psychoanalytic and Neuroscience Perspectives on Psychosis. Journal of the American Academy of Psychoanalysis, 18(1), 29–46.
  2. Schorr, S., & Goldner, L. (2023). “Like stepping on glass”: A theoretical model to understand the emotional experience of childhood parentification. Family Relations, 72(5), 3029–3048.
  3. Miller, C. E., Townsend, M. L., & Grenyer, B. F. S. (2021). Understanding chronic feelings of emptiness in borderline personality disorder: A qualitative study. Borderline Personality Disorder and Emotion Dysregulation, 8, 24.
  4. Opsvik, Y. Ø., Holbæk, I., Arefjord, K., & Hjeltnes, A. (2022). The challenge of being present with yourself: Exploring the lived experience of individuals with complex dissociative disorders. European Journal of Trauma & Dissociation, 6(2), 100250.

Counseling & Share

ご相談をご希望の方へ

カウンセリングの空き状況をご確認いただけます。 このページを必要な方へ共有することもできます。

予約ページを見る
NEW BOOK
『やわやわな心にはゼラチンを入れて、冷蔵庫で休ませましょう』
著者:井上陽平 / 2026年11月12日発売

人との距離、自分の気持ち、断ること、頼ること。 「心の境界線」という視点から、生きづらさをほどきながら、 自分の感覚や距離感を取り戻すための考え方とワークをまとめた一冊です。

BOOK
『かくれトラウマ』
生きづらさはどこで生まれたのか / 著者:井上陽平

人に合わせすぎる。緊張が抜けない。安心したいのに落ち着けない。 そうした日常の反応の奥にある見えにくい傷と、 身体が身につけてきた守り方を、 トラウマ・身体・神経系・愛着の視点から読み解いた一冊です。

テーマ別の新着記事

見たいテーマを開くと、そのカテゴリの記事を新しい順で読めます。

HSP・神経系の過敏性 (18)
セルフチェック (5)
トラウマ・CPTSD・解離 (85)
心の病・精神疾患 (44)
心理学(理論)・精神分析 (24)
心理技法・治療法 (22)
愛着・対人関係・人格の問題 (72)
井上 陽平

井上陽平(公認心理師・臨床心理学修士)。
トラウマ・解離・PTSD・愛着障害を専門とする心理カウンセラー。
児童養護施設、情緒障害児施設、精神科クリニックでの臨床経験を積み、
心身反応(フリーズ・過覚醒・離人感)への介入や、
複雑性トラウマ、対人関係、境界線の問題に重点的に取り組む。

研究テーマは「複雑性トラウマの身体反応」「解離と自己構造」「愛着スタイル」「虐待と対人関係のパターン」。現在は「こころのえ相談室」にてトラウマ専門のカウンセリングを提供。書籍の企画・執筆に関するご依頼も承っております。

井上 陽平をフォローする
複雑性PTSD
シェアする

コメント

タイトルとURLをコピーしました