トラウマの語源は、「傷」を意味するギリシャ語に由来します。
日本でよく語られる「虎と馬が語源」という説は、事実ではありません。
この記事では、トラウマという言葉の本来の意味と、なぜその誤解が広まったのかを、心理学の歴史とともに解説します。
トラウマの本来の意味――「傷」という極めて具体的な概念
「トラウマ(trauma)」という言葉は、ギリシャ語の 「τρᾶυμα(トラウマ)」 に由来します。
この語の意味は、「傷」「外傷」「損傷」です。
もともとトラウマとは、身体に生じた明確な傷を指す医学用語でした。
切り傷、打撲、裂傷、骨折――外から見ても分かる、物理的な損傷です。
この時点で重要なのは、
トラウマという言葉が、曖昧な感情や抽象的な気分を指していたわけではない、という点です。
**「機能に支障をきたすほどの損傷」**という、きわめて現実的で重い意味を持つ言葉でした。
19世紀以降、医学と心理学が発展するなかで、研究者たちはある事実に直面します。
身体には明確な傷がないにもかかわらず、事故や暴力、恐怖体験の後に、人の心と生活が長期にわたって損なわれてしまうケースが繰り返し確認されたのです。
そこで「傷」という概念が、身体だけでなく、心や精神の領域にも拡張されていきます。
こうして「心的外傷(psychological trauma)」という考え方が生まれました。
心的外傷とは何か――出来事ではなく「処理できなかった体験」
心的外傷としてのトラウマは、単に「つらい出来事」を意味する言葉ではありません。
ポイントは、その出来事を心と身体が処理しきれなかったという点にあります。
人は通常、嫌な出来事やストレス体験があっても、時間とともに整理し、過去として位置づけていくことができます。
しかし、あまりにも強い恐怖、無力感、逃げ場のなさを伴う体験では、その処理が間に合いません。
その結果、出来事は「過去」にならず、
神経系や身体反応のレベルで「いま起きている危険」として残り続けます。
ここで重要なのは、
トラウマが意志や性格の問題ではなく、生存のための反応として固定化された状態だという理解です。
ピエール・ジャネ――トラウマ理解を「解離」から開いた先駆者
トラウマの概念は、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、精神医学や心理学の領域で少しずつ形を整えていきました。
この時代は、現代のようにPTSDや複雑性PTSDといった診断枠組みが存在しなかった一方で、「心的外傷」と呼ばれる現象が確かに存在し、しかもそれが単なる気分の落ち込みや性格の問題では説明できないことが、臨床の現場から明らかになっていった時期でもあります。
多くの精神科医や心理学者が、事故、暴力、喪失、恐怖体験などののちに残る症状を観察し、記憶、感情、身体反応、人格の統合がどのように崩れるのかを研究し始めました。
解離という概念が示したトラウマの本質
その中でも、フランスの心理学者 ピエール・ジャネ(Pierre Janet) は、現代のトラウマ理論に直結する重要な視点を提示した人物として位置づけられます。
ジャネの貢献は、トラウマを単に「つらい出来事の記憶」として扱うのではなく、人格や意識の統合(統合性)そのものに生じる変化として捉えた点にあります。
ジャネは、トラウマ体験が引き起こす現象として 「解離(dissociation)」 に注目しました。
ここでいう解離とは、本人の意志で行う忘却や気晴らしではなく、圧倒的な体験の負荷によって、心の働きがうまく一体として機能できなくなる状態を指します。
つまり、出来事を理解し、意味づけし、感情を処理し、身体反応を落ち着かせる――そうした通常の「心の統合作業」が、強烈な衝撃の前で停止し、体験が十分に消化されないまま残り続ける、ということです。
解離は「弱さ」ではなく生存のための適応
ジャネの理論では、トラウマによって生じる極度のストレスは、注意や意識の幅を狭め、認知と感情の処理能力を低下させます。
すると体験は「過去の出来事」として整理されにくくなり、心の内部で未処理のまま分離されやすくなります。
この分離が進むと、人は出来事を“思い出として回想する”のではなく、あたかも「いま起きていること」のように感じたり、身体が勝手に反応したり、あるいは逆に感覚が切れて現実感が薄れたりします。
ここで大切なのは、解離が「弱さ」や「逃げ」ではなく、処理不能な負荷に対して、心と身体が生き延びるために選んだ適応として働くことです。
そして、この未処理の体験は、時間が経っても自然に消えていくとは限りません。
むしろ、似た刺激や状況に触れたときに再点火し、日常の中で繰り返し影響を与え続けます。
結果として、トラウマを抱えた人は、心の一部が切り離されたような感覚を抱えたり、過去の出来事が現在の生活へ侵入してくるような体験をしたりしやすくなります。
ジャネの視点は、こうした「時間を超えて続く影響」を、単なる記憶の問題ではなく、統合の問題として捉える道を開いたのです。
ジークムント・フロイト――「抑圧」と「症状化」の理解がもたらしたもの
トラウマ理論の発展において、もう一人欠かせないのが、精神分析の創始者として知られる ジークムント・フロイト(Sigmund Freud) です。
フロイトは1895年に、同僚の ジョゼフ・ブロイアー とともに『ヒステリー研究』を発表し、心的外傷と症状の関係を説明する初期の枠組みを提示しました。
当時の臨床現場では、身体的な病変が確認できないにもかかわらず、麻痺、痛み、失声、恐怖発作などの症状が現れる事例が観察されていました。
フロイトたちは、その背景に「体験」と「感情処理」の問題があると考え、出来事の記憶そのものだけでなく、体験に付随する感情が適切に扱われないことが、症状として残る可能性に注目しました。
フロイトの理論では、トラウマ体験は無意識へと押し込められ、表面上は忘れ去られたように見える場合があります。
しかし、忘却は「無かったこと」にはならず、抑圧された体験は別の形で回帰し、心身の不調や行動のパターンとして現れる――これが重要な洞察でした。
フロイトは、トラウマが直接的に言葉として表現されるのではなく、ヒステリー症状、不安、強迫、回避、反復といった形で現れることが多いと考えました。
また、フロイトはこの理解を治療へとつなげ、精神分析療法を提案しました。
精神分析では、患者と治療者が長期にわたる対話を重ね、無意識に沈んだ体験や感情を言語化し、意識へ引き上げていくことを目指します。
その後の発展――PTSDから複雑性PTSDへ
ジャネやフロイトの時代から、トラウマ研究は大きく進展してきました。
特に20世紀後半以降、戦争体験、自然災害、犯罪被害、家庭内暴力、事故など、さまざまな極限状況に置かれた人々の臨床データが蓄積されるなかで、トラウマ反応には一定の共通パターンが存在することが明らかになっていきました。
その成果として、現代ではトラウマ関連の精神疾患として PTSD(心的外傷後ストレス障害:Post-Traumatic Stress Disorder) が広く認識されています。
PTSDは、生命の危機や深刻な恐怖を伴う出来事の後に発症し、強い苦痛が長期間にわたって続く状態を指します。
PTSDの特徴――「終わったはずの出来事」が終わらない状態
PTSDに見られる代表的な症状には、以下のようなものがあります。
・フラッシュバックや侵入的記憶
・悪夢や睡眠障害
・強い不安や恐怖反応
・過覚醒(過度な警戒心、些細な刺激への過敏反応)
・回避(出来事を思い出させる状況や人を避ける)
・感情の麻痺、喜びやつながりの喪失
これらは単なる「思い出したくない気持ち」ではありません。
神経系が、過去の出来事をいま現在の危険として誤認し続けている状態であり、身体が自動的に防衛反応を起動してしまうことによって生じます。
そのため、本人が「もう安全だ」「考えなくていい」と頭で理解していても、体はそれに従いません。
トラウマ反応は意志の力で止められるものではなく、神経系レベルで固定化された反応として続いてしまうのです。
複雑性PTSD――長期的・反復的トラウマがもたらす影響
近年、PTSDとは異なる文脈で注目されているのが 複雑性PTSD(C-PTSD:Complex PTSD) という概念です。
これは、一度きりの出来事ではなく、繰り返し・長期にわたるトラウマ体験によって生じる状態を指します。
とくに、幼少期の虐待やネグレクト、家庭内暴力、慢性的な支配関係、逃げ場のない環境での心理的圧迫などは、C-PTSDの背景として頻繁に見られます。
C-PTSDでは、PTSDの症状に加えて、次のような問題が絡み合いやすくなります。
・自己価値の深刻な低下
・慢性的な恥や罪悪感
・感情調整の困難(感情が爆発する/感じられない)
・対人関係の不安定さ、過剰な警戒や依存
・解離症状(現実感喪失、感覚の切断、記憶の抜け)
・自己像の不安定さ、生きている実感の希薄さ
これらは「性格の問題」や「努力不足」ではなく、発達過程で安全を確保できなかった神経系が、長期的に形成してきた適応の結果として理解されます。
現代のトラウマ治療――「心の傷」では収まらない現象として
現代の心理学・精神医学において、トラウマはもはや単なる「心の傷」という言葉では説明しきれない現象として捉えられています。
トラウマの影響は、記憶だけでなく、身体反応、情動調整、注意機能、対人関係、自己認識、世界観にまで及びます。
トラウマが日常生活に及ぼす具体的な影響
トラウマを抱える人は、次のような状態に長く悩まされることがあります。
・安全な場面でも体が固まる
・危険がないのに警戒が解けない
・眠れない、集中できない
・感情が湧かない、あるいは些細なことで激しく揺れる
・自己否定や自己責任感が止まらない
これらは「考え方の癖」ではなく、危険に備える神経系が解除されないまま固定化している状態と理解できます。
自己破壊的パターンとして現れるトラウマ反応
近年では、トラウマが引き起こす自己破壊的・反復的な行動パターンにも注目が集まっています。
・過剰適応
・依存や回避
・衝動的行動
・同じ対人関係トラブルの反復
本人は「なぜ同じことを繰り返すのか分からない」と感じていても、神経系の視点から見ると、それはかつて生き延びるために必要だった反応である場合が少なくありません。
過去には役立った反応が、現在では苦しさを生み続けてしまう――それがトラウマ反応の本質です。
心身相関を重視したアプローチへ
そのため現代のトラウマ治療では、心と体を切り離さずに扱う 心身相関 の視点が重視されています。
認知行動療法や心理教育に加えて、以下のようなアプローチが組み合わされることが増えています。
・マインドフルネス
・呼吸法
・ボディワーク
・身体感覚への気づきを育てる介入
これらは、神経系を安全な状態へ戻す経験を積み重ねるための方法であり、トラウマ回復の基盤となります。
トラウマとは――「過去の出来事」ではなく「現在の反応のかたち」
トラウマとは、過去に受けた精神的な傷害に起因する、強い恐怖や不安、そしてそれに伴う身体的反応を指します。
ただし重要なのは、トラウマが「過去の出来事そのもの」ではなく、過去が現在に持ち越された反応として現れるという点です。
トラウマを抱える人は、本来危険でないはずの状況でも強い恐怖や不安を感じることがあります。
これは、身体が先に反応してしまう体験として現れやすく、日常生活、人間関係、仕事上の選択にまで影響を及ぼします。
トラウマ治療には、専門家によるカウンセリング、トラウマ志向の心理療法、認知行動療法、薬物療法など、さまざまな選択肢があります。
これらは、トラウマによって形成された感情・認知・身体反応のパターンを理解し、回復へつなげるための支援です。
また、セルフケアとして、瞑想、深呼吸、リラクゼーション、趣味や運動などが役立つこともあります。
ただし反応が強い場合、「自分で何とかしなければ」と抱え込まず、専門的なサポートにつながること自体が回復の重要な一歩になります。
なぜ「虎と馬」が語源だと言われるのか――誤解を正し、比喩として活かす
結論から言えば、トラウマの語源は虎や馬ではありません。
トラウマ(trauma)は、ギリシャ語で「傷」を意味する言葉に由来します。
それでも「虎(Tiger)と馬(Horse)」という話が広まった背景には、トラウマの影響を直感的に伝えやすい比喩として使われたこと、そしてネット上で語源とたとえ話が混同されたまま拡散した事情があります。
虎は、突然の恐怖やパニック、圧倒的な情動反応の比喩として語られます。
馬は、心拍数の上昇、震え、筋緊張など、身体反応の制御困難さを象徴する存在として使われることがあります。
ただし重要なのは、これらは語源ではなく、あくまで説明のための比喩だという点です。
トラウマの本質は、神経系が危険を学習し、過去を現在として反応し続けることにあります。
当相談室でできること――言葉と身体の両方から回復を支える
当相談室では、診断名の有無や症状の重さに関係なく、本人が感じている生きづらさを大切なサインとして受け止めています。
トラウマ反応は、出来事そのものだけでなく、その後にどれだけ孤立したか、どれだけ安全がなかったか、身体がどれだけ緊張し続けたかによって形を変えます。
そのため、画一的な正解を押し付けるのではなく、背景とペースに合わせた支援を重視します。
対話による整理に加え、身体反応(過覚醒、凍りつき、感覚の切断など)を扱う視点を含め、回復の足場を整えていきます。
「分かっているのに止まらない」反応を根性で抑えるのではなく、仕組みを理解し、安全の経験を積み直す。
ここに、現実的で持続可能な回復の道があります。
対面カウンセリングに加え、電話・Zoomによるオンライン対応も行っています。
語源を調べていたはずが、自分の苦しさに触れてしまった――そんな入口でも構いません。
言葉から入り、身体と生活へ戻していく。それも自然な回復のプロセスです。
【執筆者 / 監修者】
井上陽平(公認心理師・臨床心理学修士)
【保有資格】
- 公認心理師(国家資格)
- 臨床心理学修士(甲子園大学大学院)
【臨床経験】
- カウンセリング歴:10年/臨床経験:10年
- 児童養護施設でのボランティア
- 情緒障害児短期治療施設での生活支援
- 精神科クリニック・医療機関での心理検査および治療介入
- 複雑性トラウマ、解離、PTSD、愛着障害、発達障害との併存症の臨床
- 家族システム・対人関係・境界線の問題の心理支援
- 身体症状(フリーズ・過覚醒・離人感・身体化)の心理介入
【専門領域】
- 複雑性トラウマのメカニズム
- 解離と自律神経・身体反応
- 愛着スタイルと対人パターン
- 慢性ストレスによる脳・心身反応
- トラウマ後のセルフケアと回復過程
- 境界線と心理的支配の構造