幸せ恐怖症──幸せになることが怖い、隠れた心の傷とトラウマの記憶

Ⅰ.「幸せ」を前にしたとき、なぜ足がすくむのか

ほんの少し、人生が穏やかになってくる瞬間がある。

職場での評価が上がる、信頼できそうな人と出会う、生活が安定してくる、体調の波が落ち着いてくる――
そんなとき、多くの人はほっと胸を撫でおろすのかもしれない。

けれど、ある人たちはそこで逆にざわめき始める。

「このまま幸せになってしまって、ほんとうに大丈夫なのか」
「どうせあとで壊れるなら、期待しないほうがまだましだ」
「うまくいき始めたときほど、何か悪いことが起きる」

遠くから見れば、ようやく陽の当たる場所に出てきた人の姿に見える。
しかしその足元では、いつ崩れるかわからない地面の上に、そっと片足を置いているような感覚がある。

「幸せになることが怖い」という心のあり方は、怠惰でも贅沢でもない。
それはたいてい、「幸せを信じて裏切られた記憶」が、静かに折り重なった場所から生まれてくる。


Ⅱ.「幸せ」がトラウマの影と結びつくとき

幸福恐怖症の根には、ほとんどの場合「過去の傷」が息をひそめている。

幼いころ、うれしそうにしている自分を、誰かが冷たい目で見ていなかっただろうか。
少し誇らしい出来事を母親に伝えたとき、「それくらい普通でしょ」と切り捨てられなかっただろうか。
調子に乗ってはしゃいだ瞬間、「いい気になるな」と叱責された記憶はないだろうか。

そのたびに、心の奥では小さな学習が積み重なっていく。

  • 楽しそうにすると、叩かれる
  • 喜びを見せると、妬まれる、からかわれる
  • 良いことが起きると、そのあと必ず悪いことが起きる

やがて脳と神経は、次のような“安全装置”を作動させる。

「幸せを感じすぎないほうが、安全だ」

幸福そのものではなく、「幸福のあとに訪れた痛み」こそが、身体感覚と結びついてしまう。
嬉しさ、充足感、ゆるみ――本来ならば心と身体を休ませるはずの感覚が、
いつのまにか「警報」のスイッチになってしまう。


Ⅲ.「もう傷つきたくない」心が選ぶ3つの戦略

幸せを前にして足がすくむとき、人は無意識にいくつかの戦略を取る。

1. 期待値をゼロにする

あらかじめ自分にこう言い聞かせる。

「どうせ長続きしない」
「この人も、いつか離れていく」
「仕事なんて、そのうち評価が落ちる」

こうしておけば、実際に失敗したときのショックは少しだけ和らぐ。
期待を持たなければ、失望に飲み込まれずに済む、という計算だ。

しかしその代償として、「今まさにある良さ」まで、ぼやけて見えなくなってしまう。
安堵や満足を十分に受け取る前に、「どうせ」「いつか」を持ち出してしまうことで、
心はつねに半歩だけ、幸せから後ろに下がった場所に立ち尽くすことになる。

2. わざと壊す

恋愛がうまくいき始めたときに、相手を試すような言葉を投げてしまう。
仕事で評価され始めたタイミングで、締切を破ったり、急に連絡を途絶えさせてしまう。

「どうせ壊れるくらいなら、自分の手で壊したほうがマシ」

そんなロジックが、心のどこかで息をしている。
失われるのを待つくらいなら、まだ自分から手放すほうが耐えられる――
それは、見捨てられ体験を繰り返してきた人が、しばしば選び取る“自己防衛”の形でもある。

3. 幸せに見えない「安全な場所」へ退避する

昇進を断る、挑戦の機会を見送る、親密な関係になりそうな相手から距離をとる。
はたから見れば「もったいない」選択に映ることも、多いかもしれない。

だが、当人にとってはそれがもっとも安全なルートだ。

「幸せになりかけたときほど、人生は牙をむいた」
「期待を抱いた瞬間から、転落が始まる」

この身体感覚にしがみつくことで、心は「これ以上の傷」を防ごうとしている。


Ⅳ.「幸せ恐怖症」の奥にある、深い羞恥と罪悪感

幸せを受け取れない人の多くは、心のどこかでこう感じている。

「自分が幸せを望むなんて、生意気だ」
「自分には、そこまでの価値はない」
「他の人が苦しんでいるのに、自分だけ楽になっていいのか」

これは、単なる自己卑下ではない。
しばしば幼少期からのメッセージの積み重ねが、そうした感覚を植え付けている。

  • 親の機嫌のために「いい子」でい続けた
  • 自分が楽しむと、誰かが不機嫌になった
  • 兄弟や他人と比較され、「あの子を見習いなさい」と言われ続けた
  • 親自身が「どうせ人生なんてうまくいかない」と語る姿を見てきた

こうした環境では、「自分の欲求を主張する=誰かを傷つける/怒らせる」という
連想が深く刷り込まれてしまう。

結果として、「ただ静かに満たされて生きたい」という、ごくささやかな願いでさえ、
どこか罪深いもののように感じられてしまうのだ。

この“幸せへの罪悪感”については、
罪悪感が強い人の特徴:後悔がいっぱいになる病気とその解消法
で詳しく扱っているが、幸わせ恐怖症はまさにこの罪悪感と強く結びついた心のパターンである。


Ⅴ.「幸せ=危険」という神経系の学習

ここまでを、もう少し神経生理の言葉で見てみよう。

本来、「安心しているとき」の身体は、呼吸が深く、消化も働き、筋肉の緊張がほどけている。
ポリヴェーガル理論で言うところの、腹側迷走神経が優位になっている状態だ。

ところが、幼い頃から安全が裏切られ続けると、「リラックス」の体験そのものが、危険と結びついてしまう。

安心した
→ 気が緩んだ
→ その隙を突かれて叩かれた/怒鳴られた/見捨てられた

このサイクルを何度も通過した身体は、やがてこう学習する。

「緊張していたほうが、まだ安全だ」
「安心すると、何かが襲ってくる」

その結果、「幸せ」や「安堵」を感じるほど、交感神経や背側迷走神経(凍りつき反応)が
逆に強く反応してしまうことがある。

つまり、“幸せ恐怖症”とは、
「幸せ」と「危険」が神経レベルで結びついてしまった状態
と見ることもできるだろう。

この神経系の過敏さや凍りつき反応については、
ポリヴェーガル理論を簡単に──「安全」と「つながり」をめぐる神経の地図
で詳しく解説しているが、
幸福を前にして体が固まる感覚も、この延長線上にある。


Ⅵ.再び訪れる「外傷の再演」としての幸せ恐怖

「幸せになりかけた瞬間に、破壊が起きる」というパターンは、
トラウマ臨床ではしばしば「外傷の再演」として理解される。

過去に起きた出来事が、形を変えて現在に繰り返される。
たとえば――

  • 温かい恋人ができたときに限って、激しい喧嘩を繰り返して別れてしまう
  • 安定した仕事に就いた途端、体調を崩して仕事を辞めざるを得なくなる
  • 生活が落ち着いてきたタイミングで、自ら大きな借金やトラブルに足を踏み入れてしまう

これらは、単なる「自制心の欠如」ではない。
心のどこかで「かつての結末」をなぞろうとする衝動が、静かに働いている。

「幸福のあとには破綻が来る」
「愛されたあとは、必ず捨てられる」
「安心した瞬間に、世界は崩れる」

この“筋書き”をなぞることで、かえって安心する自分がいる。
結末を予測できるほうが、予測不能な災厄よりも耐えやすいからだ。

こうした再演現象について、より詳細に知りたければ、
PTSDと外傷の再演:過去の記憶が現在に蘇る理由
も参照されたい。幸せ恐怖症も、ある意味では「幸福場面を舞台にした外傷の再演」として読み解ける。


Ⅶ.「幸せを選ぶ」という行為の、恐ろしさと尊さ

幸せ恐怖症の人にとって、「幸せを選ぶ」とは、単にポジティブになることでも、
意識を高く持つことでもない。

それは、

  • 二度と行きたくない場所に、もう一度だけ足を踏み入れること
  • 裏切られた記憶を抱えたまま、もう一度だけ誰かを信じてみること
  • 崩れ落ちたあとに、なお生きている自分を信じ直すこと

を意味している。

だからこそ、「幸せを選ぶ」ことは、本人にとって小さな勇気どころか、
命がけの再挑戦のように感じられることもある。

たとえ一歩でも前に出ることができたなら、それは外から見える成果よりも、
ずっと深いところでの“物語の書き換え”が始まっている印だ。


Ⅷ.回復とは、「幸せに慣れ直す」長いプロセス

幸せ恐怖症からの回復は、劇的な変化として訪れることは少ない。
むしろ、「少しずつ幸せに慣れ直す」ような、静かで地味なプロセスの積み重ねである。

1. いきなり「大きな幸せ」を目指さない

安全基地がもともと弱い人にとって、
いきなり大きな目標や劇的な変化を掲げることは、むしろ再トラウマ化を招きかねない。

  • 朝、少しだけゆっくりと呼吸をする時間を持つ
  • 一日の中で「悪くなかった瞬間」を探してみる
  • 小さな快を感じたとき、「でもどうせ」と打ち消さず、数秒だけ味わう練習をする

こうした微細な「許容できる幸せ」を、神経系に少しずつ覚えさせていくことが重要だ。

2. 「怖さ」を消そうとせず、同伴者として扱う

幸せを前にしたときの恐怖や不安を、完全になくそうとすると、
かえってそれ自体が新たな戦いになってしまう。

「怖いけれど、それでも少しだけ近づいてみる」
「怖さと一緒に、半歩だけ進んでみる」

そんなふうに、恐怖を“排除すべき敵”ではなく、
かつて自分を守ろうとしてくれた古い警報装置として扱うことができたとき、
心の硬さは少しだけほどけていく。

3. 誰かと一緒に、幸せに触れてみる

ひとりで幸せに向き合うのが難しいとき、
信頼できる他者の存在は、神経系にとって強力な「安全シグナル」となる。

  • 安心して話せる友人
  • パートナー
  • セラピストやカウンセラー

誰かが隣で見守ってくれているだけで、「幸せに近づく」という行為は、
少しだけ現実味を帯び、耐えうる体験に変わっていく。


Ⅸ.「幸せを怖れる自分」を、責めないという選択

最後に、いちばん伝えておきたいことがある。

幸せになることが怖い自分を、どうか責めないでほしい。

その怖さは、怠けでも、根性のなさでも、性格の欠陥でもない。
むしろ、何度も裏切られ、何度も壊れながらも、それでも生き延びようとしてきた
あなたの神経系の、必死の防衛の名残だ。

幸せを遠ざけてきたのは、「もう壊れたくない」と願う、
とても切実で健気な自己保護の働きでもある。

だからこそ、回復とは「その防衛を解除してしまうこと」ではなく、

「守ろうとしてくれたことに感謝しながら、
すこしずつ役目を終えてもらうプロセス」

と言えるかもしれない。

幸せのまぶしさに目を細めてしまう時期があっていい。
うまく受け取れないまま、何度も行きつ戻りつしながらで構わない。

それでも、
「いつか、安全なかたちで幸せを受け取ってもいいのかもしれない」
と、ほんの少しだけ思える日が来たなら――

その瞬間から、あなたの人生の物語は、
ゆっくりと、しかし確実に、別の方向へと書き換わり始めている。

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【執筆者 / 監修者】

井上陽平(公認心理師・臨床心理学修士)

【保有資格】

  • 公認心理師(国家資格)
  • 臨床心理学修士(甲子園大学大学院)

【臨床経験】

  • カウンセリング歴:10年/臨床経験:10年
  • 児童養護施設でのボランティア
  • 情緒障害児短期治療施設での生活支援
  • 精神科クリニック・医療機関での心理検査および治療介入
  • 複雑性トラウマ、解離、PTSD、愛着障害、発達障害との併存症の臨床
  • 家族システム・対人関係・境界線の問題の心理支援
  • 身体症状(フリーズ・過覚醒・離人感・身体化)の心理介入

【専門領域】

  • 複雑性トラウマのメカニズム
  • 解離と自律神経・身体反応
  • 愛着スタイルと対人パターン
  • 慢性ストレスによる脳・心身反応
  • トラウマ後のセルフケアと回復過程
  • 境界線と心理的支配の構造

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