「闇に惹かれる」「黒に連れ去られる」「取り憑かれる感じがする」。
この種の言葉は、ときに破壊衝動や自己否定、あるいは病理的嗜好として誤解されがちです。
しかし臨床の視点から見ると、そこで起きているのは**“壊れたい欲望”ではありません。**
それは、かつて危険だった外界から距離を取り、
比較的安全だった内側へ戻ろうとする心身の記憶の動きです。
外の関係は常に不確かで、
裏切り、拒絶、過剰な刺激、予測不能な反応に満ちていた。
一方で、内側だけは同じ形を保っていた。
愛が足りなかったのではない。
愛が危険だった。
だから人は、無意識のうちに「外」よりも「内」へと退きます。
退くことは敗北ではありません。
それは、まだ壊れきらないために選び取られた知恵です。
深く、どこまでも続く真黒な空洞は、空虚ではありません。
そこには、外に出ることができなかった感情が沈んでいる。
それは、外に行けなかった結果として残った、
内側だけで完結する世界です。
闇は「無」ではない。
闇は、外の関係に入れなかった人が、
内側でどうにか生き延びた痕跡です。
闇が“まとわりつく”とき、何が起きているのか
――意思の弱さではなく、過負荷による解離
「闇がまとわりつく」「闇に連れ去られる」という体験は、
意思の弱さではありません。
それは、過負荷の瞬間に生じる解離として理解できます。
刺激が閾値を超えたとき、
心身のシステムは生存を優先し、
意識を別の領域へと移動させます。
そこで起きているのは、単なる気分の落ち込みではありません。
現実へ接続する回路の切り替えです。
感情の麻痺。
身体感覚の遠のき。
時間の停止感。
他者の声が届かない感じ。
闇の中で独りきりでいる感覚は、
孤立というよりも、
刺激を遮断して生存を優先する状態に近い。
外界よりも内部が優勢になり、
現実との接触が最小化されます。
この「身体的な切断と退避」は、
身体症状や慢性的な緊張とも結びついていきます。
トラウマ反応が身体に残る仕組みについては、
以下で詳しく扱っています。
→ https://trauma-free.com/division/
闇に引き込まれる感覚は、比喩ではない
――複雑性トラウマが起こす「同時多発の崩れ」
複雑なトラウマを抱える人が語る
「闇に引きずり込まれる感覚」は、
文学的な比喩ではありません。
それは、
記憶の再活性化・情動の氾濫・身体反応・現実感喪失が
同時多発的に起きる心身の崩れ方です。
トラウマ記憶は、
物語として保存されていないことが多い。
多くの場合、それは
感覚・情動・身体反応の断片として、
時間から切り離された形で保持されています。
そのため、些細な刺激で一気に活性化すると、
現在の時間軸に統合されないまま噴き上がる。
このとき起きているのは、
過去の出来事が「思い出されている」のではありません。
現在の身体が、過去の状況として再編成されている状態です。
闇に落ちる。吸い込まれる。
そう言いたくなるのは当然です。
そこでは、意識的な制御がほどけ、選択権が消える。
踏ん張っているのに、
足元の地面ごと抜け落ちる。
現実が遠のき、自分の輪郭が薄くなっていく。
身体が鉛のように重くなる理由
――背側迷走神経優位と「生きるエネルギー」の遮断
「身体が鉛のように重くなる感覚」は、
心理的表現ではありません。
神経生理学的にも説明可能な、切実な身体状態です。
極度の無力感や、逃げ場のない恐怖に晒された神経系は、
戦うことも逃げることも放棄し、
シャットダウンへと傾きます。
筋肉が“力を出す”ための回路が閉じる。
身体は、生き延びる主体として機能するより先に、
壊れないことを優先する。
その結果、体験としてはこうなる。
動けない。
重い。
消えそう。
ここにいない。
これは怠けでも、気分の問題でもありません。
生存戦略として選ばれた、最後の防衛反応です。
そしてこの重さは、
「何も楽しくない」「感じられない」という虚無感と結びつきやすい。
快楽や関心が消える感覚の背景については、
以下の記事でも整理しています。
→ https://trauma-free.com/not-fun/
真黒な空洞は「欠乏」ではなく、防衛として成立した内的世界である
真黒な空洞は、情動の枯渇ではありません。
それは、情動を感じること自体が危険だった環境で、
感じる主体そのものが凍結・隔離された結果として残った層です。
このとき心は、
欲求を失ったのではない。
欲求が外へ向かう通路を閉じたのです。
バリントの言うベーシック・フォールトの視点では、
この状態は「意味が分からない」問題ではありません。
存在を支える基盤が、
意味以前の段階で損なわれた結果です。
フェアバーン的に言えば、
外の関係に行けなかったことが、
内側に完結した関係世界を作り出した。
それは欠陥ではありません。
当時の生存に必要だった適応です。
しかし、その構造が現在も維持されるとき、
人は理由のない空虚や、
繰り返される関係の断絶として、
この闇を体験することになります。
闇は敵ではない
――“追い払うほど強まる”という逆説
神話の文脈に置き換えると、
この体験は「冥界への下降」と重なります。
ペルセポネやイナンナの下降は、
罰でも破滅でもありません。
それは、
光の世界では扱えなかったものを回収する過程です。
「境界の彼方」とは、
旧い秩序が解体され、
新しい意味がまだ生まれていない中間領域。
そこで起きるのは、治癒の完成ではなく、
むしろ**“材料の回収”**です。
重要なのは、
この黒を「異常」「悪」「排除すべきもの」と扱うほど、
体験が強化されてしまうという点です。
闇は敵ではない。
未処理の感情と、関係の履歴が集積した場所です。
そして、闇が「安心」に感じられてしまう理由も、ここにあります。
闇の内部には、期待がない。
関係がない。
刺激がない。
判断されない。
つまり、
再び傷つく可能性が最小化される。
身体はそこを、安全地帯として学習してしまう。
だから人は、
闇から抜け出しかけた瞬間に、
かえって不安が増すことがある。
現実感が戻り始めると、
期待、反応、失敗、関係のリスクが一気に立ち上がる。
闇は苦しい。
しかし、それは既知の苦痛でもある。
外の世界は未知で、予測できない。
予測不能なものは、神経系にとって危険になりやすい。
心は理解している。
ここに留まり続ければ、生きることはできない。
しかし身体は知っている。
ここにいれば、これ以上壊されることはない。
この乖離が、回復過程を極端に難しくします。
闇に適応した魂は、光を拒んでいるのではない
闇に適応した魂は、光を拒んでいるのではありません。
ただ、その光が、
自分の神経と身体を壊してしまうことを、すでに知っているだけです。
この魂もまた、かつては光を望んでいました。
「普通の幸せ」を夢見たことがある。
誰かと気持ちを交わし、
安心できる場所に身を置き、
努力すれば報われる世界を信じていた。
だから戦いました。
病と闘い、自分を変えようとし、
諦めないことを美徳として生きてきた。
けれど、鏡に映る自分は、いつも光から遠かった。
どれほど努力しても、闇は消えなかった。
希望に手を伸ばすほど、その距離は遠ざかっていった。
やがて魂は、ある事実に気づきます。
望むことそのものが、自分を削り続けているということに。
これは怠惰ではありません。
諦念でもない。
それは、魂が
「これ以上の自己破壊を続けない」と
静かに決断した瞬間です。
光を拒んだのではない。
光の名をした過剰な期待や、
神経をすり減らす関係や、
「耐え続けること」を善とする生き方から、
身を引いただけなのです。
真黒な空洞へ戻ろうとする感覚の正体
――回収されなかった自己の呼び声
真黒な空洞へ戻ろうとする感覚は、
破壊衝動の表れではありません。
それは、
回収されなかった自己の一部が、
なお境界の向こう側に残っているという事実の表現です。
真黒な空洞は、人を壊すために存在しているのではない。
むしろ、
壊れきらないために、かつて必要だった場所でした。
外の世界が過酷で、
現実との接続が耐えがたい状況において、
心身を守るために成立した内的領域だったのです。
しかし成長後、
この空洞が「取り憑くもの」のように感じられることがある。
それは弱さではありません。
かつて機能していた防衛装置が、
現在の環境に適応しきれず、
過剰に作動し続けている状態にすぎません。
このような場合、必要なのは
真黒な空洞を追い払うことではありません。
安全な関係と、
神経系が過覚醒やシャットダウンに傾かない身体条件のもとで、
現実との接続を少しずつ回復していくこと。
真黒な空洞を否定せず、
そこに飲み込まれず、
境界の縁に立てる時間を増やしていくこと。
その過程を通して、
真黒な空洞は「敵」ではなく、
これまでの生存の履歴として、
ようやく位置づけ直されていきます。
【執筆者 / 監修者】
井上陽平(公認心理師・臨床心理学修士)
【保有資格】
- 公認心理師(国家資格)
- 臨床心理学修士(甲子園大学大学院)
【臨床経験】
- カウンセリング歴:10年/臨床経験:10年
- 児童養護施設でのボランティア
- 情緒障害児短期治療施設での生活支援
- 精神科クリニック・医療機関での心理検査および治療介入
- 複雑性トラウマ、解離、PTSD、愛着障害、発達障害との併存症の臨床
- 家族システム・対人関係・境界線の問題の心理支援
- 身体症状(フリーズ・過覚醒・離人感・身体化)の心理介入
【専門領域】
- 複雑性トラウマのメカニズム
- 解離と自律神経・身体反応
- 愛着スタイルと対人パターン
- 慢性ストレスによる脳・心身反応
- トラウマ後のセルフケアと回復過程
- 境界線と心理的支配の構造