私たちの心と身体は、危険を感じた瞬間、命を守るために自動的に反応します。
「闘う」「逃げる」という生存本能――これは本来、危険を回避するための健全なシステムです。
しかし、複雑なトラウマを抱える人々にとって、この防衛反応は暴走します。
たとえ今は安全であっても、心と身体は過去の恐怖を再び感じ取り、無意識に**「闘争・逃走モード」**へ突入するのです。
アクセルとブレーキを同時に踏み込んでしまったかのように、体は動こうとしても動けず、心は逃げようとしても凍りついてしまう――。
その結果、筋肉は強張り、呼吸は浅くなり、全身が緊張の檻に閉じ込められていきます。
トラウマが神経系に刻む「過敏な警戒反応」
この緊張状態は一時的なものではありません。
過去のトラウマは神経系に深く刻まれ、些細な刺激さえ「危険信号」として捉えるようになります。
例えば、何気ない人の視線や足音、ドアの音、誰かの表情の変化――。
その一つひとつが、心の奥で「再び傷つくかもしれない」という恐怖を呼び覚まします。
心と体は常に警戒態勢を保ち、リラックスすることができなくなる。
その結果、慢性的な疲労感、倦怠感、そして感情の枯渇が進んでいくのです。
安全なはずの世界が、常に「危険」と隣り合わせに感じられる。
それが、複雑性トラウマがもたらす神経的過敏さの正体です。
孤立が深める「自己防衛の悪循環」
トラウマを抱える人は、無意識のうちに人との距離を取るようになります。
それは「他者は危険だ」という身体レベルの記憶が働くからです。
安心して人と関わることが難しくなり、信頼を築く前に身構えてしまう。
孤立することで外的な危険から身を守ろうとしますが、その結果、孤独と疎外感が深まり、心の痛みが増していくのです。
「誰にも理解されない」
「また裏切られるかもしれない」
そう感じるたびに、さらに心の扉を閉ざし、自己防衛の殻を厚くしていきます。
やがて、その防衛そのものが生きづらさを生み出す――そんな矛盾に苦しむのです。
防衛本能がもたらす心身の緊張と痛み
トラウマを抱える人にとって、「無防備でいること」は何よりも恐ろしいことです。
幼い頃、助けを求めても誰も守ってくれなかった経験。
信じた人に裏切られ、心が壊れた記憶。
そうした過去が、無意識に「常に防御しなければ危険だ」という信号を出し続けます。
心と身体の“鎧”がもたらす副作用
防御のために筋肉が固まり続けると、心身は次第に悲鳴を上げます。
慢性的な肩こりや頭痛、腰痛、胃の不調、不眠――これらは単なる身体症状ではなく、長年にわたる緊張の記録なのです。
体がずっと“戦闘態勢”を保っていると、ストレスホルモンであるコルチゾールが過剰分泌され、免疫力が低下し、心身ともに消耗していきます。
この状態が続くと、どれだけ休んでも疲れが取れず、「生きること」そのものが苦痛に感じられてしまうのです。
常に張り詰めた心:人との関係が怖くなる理由
トラウマを抱える人々は、日常の中でも常に周囲を観察し、無意識に危険を探します。
他人の表情、声のトーン、動作――そのすべてを微細に読み取り、「この人は安全か」を瞬時に判断するのです。
これは生き延びるために身につけた高度なサバイバル能力ですが、同時に大きなエネルギーを奪います。
頭の中では常に警報が鳴り続け、心が休まる瞬間がありません。
過剰な警戒が生む“関係の難しさ”
この過敏な神経状態では、他人と自然に関わることが難しくなります。
相手の意図を常に読み取ろうとするあまり、自然なコミュニケーションができない。
会話の裏を探り、反応を過剰に分析してしまう――。
結果的に、他者との距離はどんどん広がり、「自分だけが取り残されている」という孤独感が深まります。
心が常に緊張し、安らげる場所を失っていくのです。
凍りついた心と身体:トラウマが生み出す「生きづらさ」の構造
凍りつき(フリーズ)反応は、極度の恐怖に直面したとき、心身を守るために起こる自然な反応です。
しかし、複雑性トラウマを抱える人々は、このフリーズ状態が長期化してしまうのです。
身体が硬直し、息が詰まり、痛みや震えが生じる。
そして「自分はもう動けない」「どうせ変われない」という無力感が深く根を下ろします。
この状態が続くと、社会との接点が失われ、仕事・人間関係・日常生活に大きな支障をきたします。
トラウマは“過去の出来事”に留まらず、“現在の生き方そのもの”を支配してしまうのです。
回復への第一歩:自分の体を感じ直すことから始まる
トラウマから回復するための最初のステップは、「自分の身体の声に気づくこと」です。
長い間、身体を“危険な場所”と感じてきた人にとって、これは勇気のいることです。
しかし、ゆっくりと呼吸を整え、体の感覚を取り戻していくことで、少しずつ安心が戻ってきます。
セラピーやカウンセリング、ヨガやソマティックワークなど、身体を通して心を癒すアプローチは非常に有効です。
安全な環境の中で、自分の感情を否定せずに受け止めること。
「恐れを感じても大丈夫」「緊張してもいい」と自分を許すこと。
それが、過去に奪われた“自己への信頼”を取り戻す鍵となります。
支援とつながり:癒しを進めるために必要な環境
トラウマからの回復は、一人では難しいプロセスです。
信頼できる人とのつながり――家族、友人、そして専門家――の存在が不可欠です。
周囲が理解を持って寄り添うことで、トラウマを抱える人は「ここにいても大丈夫だ」と感じることができます。
その安心感が、心の防衛を少しずつゆるめ、癒しを進める原動力になります。
共感と安全が保証された関係性の中でこそ、彼らは初めて凍りついた身体をゆるめ、心の奥に閉じ込めた痛みを手放すことができるのです。
まとめ:防衛の鎧を脱ぎ、再び“生きる感覚”を取り戻す
複雑なトラウマを抱える人々の心と体は、過去の記憶に縛られながらも、今を生きようとしています。
凍りついた筋肉、張り詰めた神経、閉ざされた心――それらは、かつて生き延びるために必要だった「防衛の証」です。
しかし、癒しの道を歩み始めるとき、それは少しずつ“鎧”から“自分の一部”へと変わっていきます。
安心できる関係の中で、体を感じ、呼吸を取り戻し、心が再び動き出す。
トラウマの傷は決して簡単には消えません。
けれども、「安全」を感じる体験を重ねることで、人は再び心身の自由を取り戻していくのです。
その一歩一歩こそが、凍りついた時間を溶かし、未来を取り戻すための旅なのです。
トラウマケア専門こころのえ相談室
公開 2024-6-6
論考 井上陽平
【執筆者 / 監修者】
井上陽平(公認心理師・臨床心理学修士)
【保有資格】
- 公認心理師(国家資格)
- 臨床心理学修士(甲子園大学大学院)
【臨床経験】
- カウンセリング歴:10年/臨床経験:10年
- 児童養護施設でのボランティア
- 情緒障害児短期治療施設での生活支援
- 精神科クリニック・医療機関での心理検査および治療介入
- 複雑性トラウマ、解離、PTSD、愛着障害、発達障害との併存症の臨床
- 家族システム・対人関係・境界線の問題の心理支援
- 身体症状(フリーズ・過覚醒・離人感・身体化)の心理介入
【専門領域】
- 複雑性トラウマのメカニズム
- 解離と自律神経・身体反応
- 愛着スタイルと対人パターン
- 慢性ストレスによる脳・心身反応
- トラウマ後のセルフケアと回復過程
- 境界線と心理的支配の構造