かつて恐怖で体が凍りついた経験をした人にとって、「身体を動かす」ことは単なる運動以上の意味を持ちます。
トラウマの本質は、逃げることも、抵抗することもできず、身体の自由を奪われたまま恐怖を刻み込まれることにあります。
その瞬間、体は凍結し、心は言葉を失い、感情は奥底に封じ込められます。
時間が経っても、体の中にはその「凍りつき」の記憶が残り、心と体のつながりが途切れたままになることもあります。
しかし、筋肉を通して再び体を動かすことは、閉ざされた心と体を再び結びつけ、トラウマから解放されるための第一歩となるのです。
筋肉と心の関係:運動が生み出す「幸福ホルモン」の力
筋肉は単なる「動かすための器官」ではありません。
私たちの精神の安定や幸福感に深く関わる、いわば“心の延長線上”にある存在です。
運動によって筋肉が刺激されると、体内でエンドルフィン、セロトニン、ドーパミンといった“幸せホルモン”が分泌され、心のバランスを整えます。
エンドルフィン:痛みをやわらげる自然の鎮痛剤
運動を始めてしばらくすると、少しずつ気分が明るくなり、心の中に爽快感が広がっていく——。
それは「エンドルフィン」の働きによるものです。
エンドルフィンは脳内で痛みをやわらげ、ストレスを緩和し、心に穏やかさをもたらします。
ランニングやウォーキングの後に感じる「ランナーズハイ」も、このエンドルフィンの効果です。
セロトニン:心の安定と安心感をもたらすホルモン
セロトニンは“心の安定剤”とも呼ばれ、ストレスや不安を鎮める作用を持ちます。
規則的な運動によってセロトニンが増えると、睡眠の質が上がり、気分が落ち着き、イライラが減ります。
とくに、朝のウォーキングやストレッチはセロトニンの分泌を活発にし、心に穏やかなスタートをもたらします。
ドーパミン:やる気と達成感の源
何かを「やり遂げた」と感じた瞬間、脳の中でドーパミンが放出されます。
運動もその一つ。筋肉を動かすたび、脳は達成感を覚え、次への意欲を生み出します。
運動を続けるうちに「もう少し頑張りたい」と思えるのは、ドーパミンの働きによって快楽とモチベーションの循環が生まれるからです。
心と体の活性化:運動がもたらす全身への恩恵
運動によって筋肉が刺激されると、血流が良くなり、酸素と栄養が全身に行き渡ります。
これは単に体を健康にするだけでなく、脳にも良い影響を与えます。
コルチゾール(ストレスホルモン)の調整
ストレスが続くと増える「コルチゾール」は、心身を疲弊させる原因のひとつです。
運動はこのコルチゾールの分泌を自然に抑え、免疫機能を高め、ストレス耐性を強化します。
定期的な運動は、体だけでなく心の免疫力をも育てるのです。
運動が脳に与える影響:記憶・集中・学習の向上
筋肉を動かすと、脳の神経細胞(ニューロン)が活性化します。
特に、記憶を司る「海馬」では新しい神経細胞が生まれ、認知機能が向上します。
運動を続けることで、思考がクリアになり、集中力が高まり、ストレス耐性も強化されます。
まさに“筋肉が脳を育てる”といっても過言ではありません。
トラウマからの回復を支える「運動の力」
トラウマを抱える人にとって、体を動かすことは“再び自分の体に戻る”ことを意味します。
トラウマによって麻痺した感覚や、体への信頼を少しずつ取り戻していくプロセスです。
ヨガ・太極拳・ダンスの癒し効果
近年のトラウマ治療では、ヨガや太極拳、ダンスなどが積極的に取り入れられています。
これらの運動は「呼吸」「動作」「感覚」に意識を向けることで、心身の分離を癒し、内側に溜まった緊張をゆるめていきます。
また、グループで行う運動は“他者とのつながり”を回復させ、孤独感を和らげる効果もあります。
筋肉が創り出す新しい現実:身体・心・社会のつながり
筋肉の状態は、私たちの“生きる現実”そのものを形づくります。
- 筋肉と精神の現実:
体がこわばっていると、心も不安定になります。筋肉をリラックスさせることは、心の平穏を取り戻す第一歩です。 - 筋肉と経済的現実:
健康な体は、仕事の集中力や生産性を高め、医療費を減らすなど、経済的な安定にもつながります。 - 筋肉と認知的現実:
運動は脳の働きを整え、記憶力や思考力を向上させます。筋肉を動かすことが、知的パフォーマンスを支えるのです。
トラウマを癒すための第一歩:小さな運動から始めよう
トラウマを抱える人にとって、いきなり激しい運動をするのは難しいかもしれません。
しかし、大切なのは小さな一歩を積み重ねること。
軽いストレッチやウォーキング、深呼吸をしながらの散歩でも十分です。
それがやがて、「自分の体を信じて動かす」感覚を取り戻すことにつながります。
また、一人で抱え込まず、専門家や信頼できる人のサポートを受けながら進めることが大切です。
誰かと一緒に歩くことで、孤独が癒され、再び人とのつながりを感じられるようになります。
自然とつながる運動:心を再生する時間
自然の中で体を動かすと、五感が目覚め、心が静かに整っていきます。
森の香り、風の音、光の揺らぎ——それらは体の奥に安心感を呼び戻します。
公園でのウォーキングや登山、海辺でのランニングなど、自然との一体感を感じられる運動は、心の再生に深く作用します。
まとめ:運動は「心のリハビリテーション」
運動は単なる健康維持ではありません。
それは、自分の体を取り戻し、心を再び自由にするための儀式です。
筋肉を動かすたびに、私たちは「生きている」という実感を取り戻していきます。
トラウマで閉ざされた心も、少しずつほぐれていく。
運動は、過去に縛られた体と心を解放し、未来へと踏み出す力を与えてくれます。
今この瞬間からでも、小さな一歩を踏み出しましょう。
あなたの筋肉が、あなたの人生を変える力を持っています。
トラウマケア専門こころのえ相談室
公開 2024-6-14
論考 井上陽平
【執筆者 / 監修者】
井上陽平(公認心理師・臨床心理学修士)
【保有資格】
- 公認心理師(国家資格)
- 臨床心理学修士(甲子園大学大学院)
【臨床経験】
- カウンセリング歴:10年/臨床経験:10年
- 児童養護施設でのボランティア
- 情緒障害児短期治療施設での生活支援
- 精神科クリニック・医療機関での心理検査および治療介入
- 複雑性トラウマ、解離、PTSD、愛着障害、発達障害との併存症の臨床
- 家族システム・対人関係・境界線の問題の心理支援
- 身体症状(フリーズ・過覚醒・離人感・身体化)の心理介入
【専門領域】
- 複雑性トラウマのメカニズム
- 解離と自律神経・身体反応
- 愛着スタイルと対人パターン
- 慢性ストレスによる脳・心身反応
- トラウマ後のセルフケアと回復過程
- 境界線と心理的支配の構造