人は、強いストレスや恐怖にさらされたとき、
すぐに「壊れる」わけではありません。
多くの場合、最初に起きるのは、
思考が乱れることでも、感情が爆発することでもなく、
「つながっていた感じ」が、静かに失われていく体験です。
時間の流れが途切れたように感じる。
自分の考えが、ひとまとまりとして保てなくなる。
目の前の出来事が、現実なのかどうか分からなくなる。
それは混乱というより、
意識の連続性がほどけていく感覚に近いものです。
経験が統合されなくなる瞬間
複雑性PTSDを背景に、解離反応が出やすい人が、
極度の心理的負荷にさらされたとき、
意識はそれまで保っていた連続性を維持できなくなります。
頭の中に砂嵐が起きる感覚や、
黒いものがまとわりつくような感覚は、
単なる比喩ではありません。
それらは、処理不能な現実に直面した際に、
脳と心が生存を守るために作動させる防衛反応として理解できます。
この段階では、
外界の情報は一つの体験として統合されなくなります。
視覚は細部を失い、輪郭だけが残る。
音が「ガシャンガシャン」と機械的に響くように感じられるのも、
出来事が意味を持った現実としてまとまらず、
感覚が断片化されたまま処理されている状態を示しています。
精神分析家ウィルフレッド・ビオンの言葉を借りれば、
この状態は、極度の負荷のもとで
α機能が一時的に停止した状態に近いと考えられます。
その結果、
経験は「意味」へと変換されないまま、
処理不能な刺激として心の中に流入し続けます。
ビオンが解き明かす異常な超自我:解離が生む「厳しすぎる内なる声」の正体の記事
→ https://trauma-free.com/superego/
「何が起きたか」が分からないという現象
このとき、人は「何が起きたのか」を理解できません。
理解できないだけでなく、出来事として記憶に保存すること自体が不可能になります。
トラウマ理論では、これは典型的な解離性反応とされます。
意識が出来事から一時的に切り離されることで、心身の崩壊を防いでいる状態です。
後から
「記憶がない間に、周囲に迷惑をかけていたらしい」
という情報を知らされることは、本人にとって強烈な混乱を引き起こします。
「自分がやったはずのこと」が、自分の体験として存在しない。
この断絶によって、自己の連続性が一時的に失われてしまうからです。
精神分析家 マイケル・アイゲン が扱った極限状態の臨床でも、この
「自分が自分でなかった感覚」
は、人格の崩壊ではなく、持ちこたえるために必要だった分断として理解されています。
解離性障害に見られる代表的な症状
解離性障害の症状は、単なる「記憶の欠落」や「性格の変化」ではありません。
それは、現実・自己・他者との関係が、状況に応じて切り離されてしまう構造そのものです。
解離性健忘――記憶が「失われる」のではなく「生成されない」
解離性健忘の本質は、「思い出せない」ことではありません。
そもそも、その出来事が体験として形成されていないのです。
意識が耐えられない水準の恐怖や混乱に達すると、
出来事は意味づけられず、時間の流れの中にも配置されません。
そのため、後になっても記憶として取り出すことができない。
結果として、
- 自分が何をしたのか分からない
- なぜ責められているのか理解できない
- 状況の前後関係がまったく見えない
といった現象が生じます。
外部からは「都合よく覚えていない」「隠している」と誤解されやすい一方で、
本人にとっては、現実の一部が最初から存在していない感覚に近いものです。
解離性健忘の体験談をチェック:記憶を取り戻す旅の記事
→ https://trauma-free.com/dis/dissociative-amnesia/
意識が戻ると、世界だけが先に進んでいる
解離症状が強まると、本人が記憶していない間にも現実は進行します。
意識が戻ったとき、そこにあるのは行為の記憶ではなく、他者の感情や関係性の結果です。
- なぜ怒られているのか分からない
- なぜ誰かが泣いているのか分からない
- なぜ親密さや性的な文脈に巻き込まれているのか分からない
本人にとって世界は、理由のない結果だけが突然現れる場所になります。
これは「衝動的だから」起きるのではありません。
行動と意識、行動と記憶が別の回路で動いているために生じる現象です。
誤解が蓄積し、語れなくなっていく過程
周囲の人は、解離中に現れていた状態の本人を「本当の本人」だと理解します。
しかし本人にはその記憶がなく、説明する材料もありません。
誤解を解こうとすればするほど、
- 言い訳
- 責任逃れ
- 嘘
と受け取られる経験が積み重なります。
その結果、
- 自分のことを話すのが怖くなる
- 感情を出さない方が安全だと学習する
- 人との距離が極端になる
こうして、症状そのもの以上に、対人関係の断絶が深刻化していきます。
人への不信が、自己への不信に変わるとき
解離中の行動によって、本人の意図とは無関係に衝突やトラブルが生じます。
それが繰り返されると、
「人が信じられない」だけでなく、
「自分が信じられない」という感覚が形成されます。
なぜ自分だけが、こんな現実を生きているのか。
普通の人が経験しない世界に放り込まれている感覚。
この慢性的な切迫感は、
- 自己否定
- 悲観的な未来観
- 自暴自棄な行動
へとつながりやすく、やがて被害的な思考や運命論的な解釈を強めていきます。
身体は常に緊張し、息を潜め、
解離や離人症の症状はさらに固定化していきます。
解離性障害の症状・チェックリスト:日常生活に現れるサインの記事
→ https://trauma-free.com/dis/dissociative-disorders/
対象関係論から見た解離――部分化という生存戦略
ロナルド・フェアバーンの対象関係論では、解離は「壊れた結果」ではありません。
外界や内界があまりにも危険になったとき、
心は「全体で感じること」を放棄し、部分化によって生き延びようとする。
黒が覆う感覚は、破壊衝動ではありません。
それは
「これ以上感じれば壊れてしまう」
という限界点で発動した、遮断のメカニズムです。
神話的視点――消滅ではなく「退避」という選択
神話的な言葉を使えば、これは消滅への衝動ではありません。
それは完全な消滅を避けるため、一時的に世界との接触を弱める行為に近い。
表の世界に留まることができなかったとき、
心は「地下」へ降りるしかなかった。
それは敗北でも逃避でもなく、
生き延びるために選ばれた場所でした。
解離は「狂気」ではない
重要なのは、この状態が
狂気や人格の破綻を意味しないという点です。
それは、理解も記憶もできないほどの出来事を前にして、
心が自分を守るために選び取った、最後の安全装置でした。
後から罪悪感や恐怖が湧き上がるのは自然な反応です。
しかし、記憶の空白や制御不能な行動は、
あなたが弱かったからではありません。
それは、耐えきれない状況の中で、
心が生き延びるために働いた結果なのです。
解離からの回復とは何か
回復とは、この暗所を無理に照らし出すことではありません。
安全な関係と十分な時間の中で、
少しずつ
「輪郭だけだった世界」に色や意味が戻ってくること。
それが、トラウマ理論と臨床が一致して示す、
解離からの回復の方向です。
【執筆者 / 監修者】
井上陽平(公認心理師・臨床心理学修士)
【保有資格】
- 公認心理師(国家資格)
- 臨床心理学修士(甲子園大学大学院)
【臨床経験】
- カウンセリング歴:10年/臨床経験:10年
- 児童養護施設でのボランティア
- 情緒障害児短期治療施設での生活支援
- 精神科クリニック・医療機関での心理検査および治療介入
- 複雑性トラウマ、解離、PTSD、愛着障害、発達障害との併存症の臨床
- 家族システム・対人関係・境界線の問題の心理支援
- 身体症状(フリーズ・過覚醒・離人感・身体化)の心理介入
【専門領域】
- 複雑性トラウマのメカニズム
- 解離と自律神経・身体反応
- 愛着スタイルと対人パターン
- 慢性ストレスによる脳・心身反応
- トラウマ後のセルフケアと回復過程
- 境界線と心理的支配の構造