親からの暴力や怒鳴り声、理不尽な扱いの中で育った人は、大人になってもなお、その影響から完全に自由になることができません。過去の出来事は時間とともに薄れていくどころか、むしろ「当たり前の前提」として心と身体の奥深くに沈み込み、日常のさりげない場面で姿を変えて現れてきます。
例えば、職場で上司の声が少し強まっただけで身体がこわばってしまう人がいます。相手に責める意図がなくても、心は「怒鳴られる」「否定される」という記憶と瞬時に結びつき、過去の恐怖が現在の出来事に重なってしまうのです。
■ 感情が揺れやすく、自分でもコントロールできない感覚
暴力や怒鳴り声の中で育った子どもは、いつまた爆発が起こるかわからない環境で生きてきました。そのため、神経系は常に「戦う・逃げる・凍りつく」の準備をしており、平穏な場面でさえも緊張状態から抜け出せません。
大人になってからも、
- ささいな一言に強く傷つく
- 何気ない表情の変化だけで「嫌われた」と感じる
- 気づけば涙が止まらなくなる
- 自分でも理由がわからないほどイライラが募る
といった形で感情が大きく揺れ動きます。周囲からは「情緒不安定」「気にしすぎ」と見られてしまうこともありますが、その背景には、かつて身を守るためにフル稼働していた神経系の名残があるのです。
■ 自己価値の低下と「どうせ自分なんて」という思い
繰り返し怒鳴られたり、殴られたり、「お前のせいだ」「役立たず」といった言葉を浴びせられて育つと、子どもはやがてこう結論づけます。
「親がこんなに怒るのは、自分がダメだからだ」
その誤解は、大人になっても根深く残り、「自分には価値がない」「がんばってもうまくいかない」「どうせ嫌われる」という自己否定の形で現れます。努力しても成果を素直に受け取れず、褒められても「たまたま」「本当は違う」と受け入れられない。挑戦の場面で一歩踏み出せないのは、能力がないからではなく、「うまくいってはいけない」「目立つと却って危険だ」という、かつての学習が今も働いているからかもしれません。
親からの暴力が子どもに残す深い傷跡と心身への影響
親の暴力や怒鳴り声は、単なる「怖い記憶」では終わりません。
それは、子どもの神経系・身体・自己イメージにまで深く入り込み、その後の人生を長期的に形づくります。
■ ちょっとした物音にも過敏に反応する「凍りつき反応」
玄関のドアが勢いよく閉まる音、階段を上がってくる足音、食器のぶつかる音——。こうした日常の音に、身体が瞬時に反応してしまう人がいます。心臓がドキンと跳ね、筋肉がこわばり、呼吸が浅くなる。これはかつて「次の暴力の前触れ」を音で察知し、身を固めることで自分を守ろうとした名残です。
この反応は、頭で「もう安全だ」と理解していても、身体レベルでは容易に消えるものではありません。神経系に刻み込まれた「危険信号」は、長い時間をかけて丁寧に書き換えていく必要があります。
■ 家族の表情・声色・雰囲気を読み続ける「過剰なセンサー」
暴力や怒鳴り声が飛び交う家庭では、子どもは生き延びるために、親の機嫌や表情を細かく読む能力を身につけます。
- まゆげの角度
- 歩くスピード
- ドアの閉め方
- 発する息遣い
これらはすべて、「今、危険かどうか」を判断するための情報になります。その結果、人の表情変化や空気の変化に異常なほど敏感なHSPのような特徴を示すこともありますが、それは生まれつきの気質だけでなく、「環境によって訓練された感覚」であることも少なくありません。
■ 自己表現を抑え、「いないふり」をするようになる
暴力的な親の前では、笑うことも反論することも、時に命取りになります。
だからこそ、子どもは、
- 自分の意見を言わない
- 感情を見せない
- 喜びも怒りも表に出さない
という「いないふり」のような生き方を覚えます。これは子どもにとって精一杯の防衛であり、生き残るための知恵でした。しかし、大人になってからもこのスタイルが続いてしまうと、人間関係の中で「本音を話せない」「親密さが怖い」「いつもどこか壁を作ってしまう」といった苦しさを生み出します。
昭和時代の厳格な子育てがもたらした影響と現代との違い
昭和の時代、多くの家庭や学校では「厳しさ」が美徳とされていました。殴られた経験を語ると、「あの頃はみんなそうだった」「愛のムチだよ」と言われることも少なくありません。しかし、どれだけ時代背景があったとしても、「子どもが恐怖に怯え、心が傷ついていた」という事実は消えません。
■ 「根性論」と引き換えに失われたもの
当時の教育観では、
- 我慢すること
- 弱音を吐かないこと
- 大人の言うことに逆らわないこと
が良い子どもの条件とされていました。その一方で、
- 感情を感じる力
- 自分の意見を持つ力
- 依存して支えを求める力
といった、人間として本来必要な機能は十分に育てられないまま、大人になることを余儀なくされました。
その結果、「仕事はできるけれど、感情の扱い方がわからない」「責任感は強いけれど、弱さを見せられない」といった、アンバランスな自己像を抱える人も少なくありません。
■ 愛情が「言葉」や「スキンシップ」で伝わらなかった世代
戦後を生き抜いた世代には、「生きるだけで精一杯」という現実がありました。親自身も愛情を受け取る経験が乏しく、「優しい言葉をかける」「抱きしめる」といった表現の仕方を学べなかった人も多くいます。その結果、親自身は「自分なりに精一杯やっていた」のに、子どもは「愛されなかった」と感じる、すれ違いが起こりました。
理不尽な親のもとで育つ子どもたちの苦悩
「正解探し」のループと自己喪失
理不尽な親は、昨日と今日で言うことが違ったり、同じことをしても怒る日と怒らない日があったりします。子どもはその中で、必死に「怒られない正解」を探しますが、どれだけ努力しても怒りがぶり返すことが多く、「自分がどれだけがんばるか」とは無関係に不安が続きます。
■ どれだけ丁寧にしても報われない感覚
・家事を手伝っても、「やり方が悪い」と叱られる
・テストで良い点を取っても、「次はもっと上を目指せ」と言われる
・静かにしていても、「生意気そうな顔をしている」と怒られる
このような経験を重ねるうちに、子どもは「努力しても無意味だ」「自分の存在そのものが問題なのだ」と感じてしまいます。これは、後の「学習性無力感」やうつ状態へつながる大きな要因です。
■ 感情を押し殺す習慣と、その副作用
理不尽な親の前で自分の感情を出すことは、しばしばさらなる攻撃を招きます。そのため、子どもは、
- 泣きたいのに泣かない
- 怒りたいのに怒れない
- 苦しいのに「大丈夫」と笑う
という生き方を選ばざるを得ません。しかし、その代償は大きく、やがて「自分が何を感じているのか分からない」「心の中が空っぽだ」といった感覚につながっていきます。
理不尽な親との関係がもたらす感情の葛藤
理不尽な親に対して、人はしばしば矛盾した感情を抱きます。
- 本当は腹が立っている
- でも親を嫌いになりたくない
- 親を責めると「自分が悪い子」のように感じてしまう
このような葛藤は、心の中で複雑に絡み合い、簡単にはほどけません。怒りや悲しみを感じれば感じるほど、「親不孝」「自分が間違っているのでは」と自分を責めてしまうこともあります。
■ 感情を出せばこじれる、抑えれば自分が壊れていく
実家で怒りや悲しみを表現したときに、「なんだその態度は」「育ててもらったのに恩知らずだ」と返されてきた人は、感情表現=関係悪化、と学習しています。そのため、
- 感情を出せば、さらに関係が悪くなる
- でも抑え続けると、自分の中に怒りが溜まりすぎてしんどい
という二重の苦しみを抱えることになります。
親からの虐待がもたらす心の傷と大人になってからの影響
■ 日常のささいなことが「非常事態」に変わる
虐待の記憶を持つ人にとって、日常のささいな出来事——職場での注意、恋人とのすれ違い、友人のちょっとした一言——が、心の中では「人生を揺るがす脅威」に変わってしまうことがあります。
感情の反応が過剰だからといって、それは性格の弱さではありません。過去に「突然の怒鳴り声」「一瞬で空気が変わる経験」をしてきたため、心も身体も「次の危険」に備えるようにプログラムされているのです。
■ 怒りが自分や他者に向かう
親への怒りを直接向けられなかった人は、そのエネルギーを自分自身に向けがちです。
- 自傷行為
- 過食・拒食
- 過度な働きすぎ・追い込み
- 自分を責め続ける思考
などは、実は「外に出せなかった怒り」が向きを変えたものでもあります。一方で、一見穏やかに見える人が、親密な関係になると突然攻撃的になる場合もあり、「被害者である」と同時に「加害者的側面」を持つことに苦しむ人も少なくありません。
トラウマが身体に刻まれる:日常の中で続く「フラッシュバック」
トラウマは、ただ頭の中に映像として残るだけではなく、身体感覚としても突発的に蘇ります。
- 大声が聞こえた瞬間に心臓がバクバクする
- 人が近づくだけで肩がすくむ
- 強く叱られた場面が、夜中に何度も夢に出る
これは「もう過ぎたことを思い出している」のではなく、「神経系が今もその場にいる」と錯覚してしまっている状態です。本人にとっては、「なぜこんなに反応してしまうのか分からない」という戸惑いと自己嫌悪が生まれやすくなります。
過去の傷から距離を置く:親からの虐待が人間関係に与える影響
■ 距離を取ることは「逃げ」ではなく「セルフケア」
親との距離を取る、連絡を減らす、実家に帰らない——こうした選択は、周囲から誤解されたり、「親不孝」と非難されたりすることがあります。しかし、過去に繰り返し傷つけられてきた人にとって、距離を置くことは心の安全を守るための重要なステップです。
安全な距離を取ることで、
- 過去の役割(いい子・犠牲的な子)から一時的に離れられる
- 自分の感情やニーズに耳を傾けやすくなる
- 「自分の人生」を歩む感覚を取り戻しやすくなる
といった変化が生まれます。
■ 人との関わりが「重荷」になる理由
過去のトラウマ経験者は、人との関係において、
- 嫌われないように常に振る舞いをチェックする
- 相手の気持ちを先回りして考え続ける
- 些細なことでも「怒らせてしまったかも」と不安になる
といった思考パターンになりやすいです。その結果、他者との時間そのものが「癒し」ではなく「緊張」を生む場になり、心身ともに疲弊してしまいます。そして、疲れ果てた末に「もう人付き合いなんてしたくない」「一人のほうが楽だ」と、孤立を選ばざるをえなくなることもあるのです。
親からの虐待がもたらす心の傷と、自己回復への具体的ステップ
トラウマからの回復は、「昔の自分に戻ること」ではありません。
傷つきながらも必死に生き抜いてきた自分を理解し直し、
これからの人生を「自分のために選び直していくこと」です。
① 過去をなかったことにしようとしない
「忘れよう」「考えないようにしよう」とするほど、トラウマは形を変えて戻ってきます。
安全な場で少しずつ言葉にし、整理していくことが大切です。
- カウンセリングで話す
- 信頼できる友人に一部だけ打ち明ける
- 日記やノートに、当時の感情を書いてみる
など、「外に出しても大丈夫な形」を少しずつ探していきましょう。
② 自分を責める癖に気づき、やめていく
虐待の責任は、子どもではなく、親の側にあります。
「自分がもっといい子だったら…」という思いは、当時の自分が必死に状況を理解しようとして生まれた、健気な誤解です。それに気づくことが、自己否定から抜け出す第一歩です。
③ 感情を感じていい、と自分に許可を出す
怒り、悲しみ、寂しさ、悔しさ――
どんな感情も、本来は感じてよいものです。
感情を感じることと、実際に誰かを攻撃することは違います。
- 「今、自分は怒っているな」
- 「あの時、本当は寂しかったんだな」
と、心の中でそっと言葉をかけてあげるだけでも、感情は少しずつ動き出します。
④ 身体のケアから始めるトラウマ回復
心の問題だと思われがちなトラウマですが、その多くは「身体の反応」として現れます。
そのため、心を整える入口として、
- ゆっくりとした呼吸(吐く息を長めに)
- 足裏の感覚を感じるグラウンディング
- 軽いストレッチや散歩
- ヨガ・瞑想・ボディワーク
といった身体アプローチは、とても有効です。「深く語る前に、まず身体を少しだけ安心させる」ことが、回復のプロセスを支えます。
⑤ 小さな成功体験を積み重ねる
自己肯定感は、一気に高めることはできません。
・一日ちゃんと休めた
・今日は自分を責める時間が少し短かった
・苦手な相手に、はっきり「NO」が言えた
こうした小さな一歩を認め、「よくやった」と自分で自分を褒めることが、心の筋肉を少しずつ育てていきます。
⑥ 安全な人間関係を、ひとつだけでも持つ
トラウマの反対は、「安全なつながり」です。
すべての人と仲良くなる必要はありません。
心から安心できる人が一人いるだけで、人は驚くほど強くなれます。
トラウマを乗り越えた先にある未来
傷は消えなくても、「物語の意味」は変えられる
親からの暴力や怒鳴り声、理不尽な扱いは、決して「なかったこと」にはなりません。
しかし、その出来事があなたの人生の「すべて」ではありません。
- 傷つきながらも、生き抜いてきた強さ
- つながりを求める感受性
- 同じように苦しむ誰かを理解しようとする優しさ
トラウマの中を生きてきた人だからこそ持てる視点や力が、必ずあります。
過去は変えられないけれど、
「その過去をどう受け取り直すか」「これからどう生きていくか」は、今この瞬間から少しずつ選び直すことができます。
トラウマを乗り越える道は平坦ではありません。
それでも、その道の先には、必ずあなたにしか見えない景色があります。
「もうこれ以上、傷つきたくない」と願ったその気持ちこそが、
あなたが回復へ向かって歩き始めている何よりの証拠です。
あなたは、未来を築く力をすでに持っています。
そのことだけは、どうか忘れないでいてください。
トラウマケア専門こころのえ相談室
公開 2023-12-18
論考 井上陽平
【執筆者 / 監修者】
井上陽平(公認心理師・臨床心理学修士)
【保有資格】
- 公認心理師(国家資格)
- 臨床心理学修士(甲子園大学大学院)
【臨床経験】
- カウンセリング歴:10年/臨床経験:10年
- 児童養護施設でのボランティア
- 情緒障害児短期治療施設での生活支援
- 精神科クリニック・医療機関での心理検査および治療介入
- 複雑性トラウマ、解離、PTSD、愛着障害、発達障害との併存症の臨床
- 家族システム・対人関係・境界線の問題の心理支援
- 身体症状(フリーズ・過覚醒・離人感・身体化)の心理介入
【専門領域】
- 複雑性トラウマのメカニズム
- 解離と自律神経・身体反応
- 愛着スタイルと対人パターン
- 慢性ストレスによる脳・心身反応
- トラウマ後のセルフケアと回復過程
- 境界線と心理的支配の構造