―心と身体に刻まれた「危険の記憶」を理解し、再演の苦しみを癒すために―
胸を締めつける痛みが突然訪れ、視界がゆらぎ、過去の気配だけが濃密に立ち上がってくることがある。
日常のただ中で、その瞬間だけ「時間」が巻き戻り、身体が勝手に警報を鳴らす。
理由はわからない。ただ、身体の奥で昔の出来事が目を覚まし、こちらの意思とは関係なく動き始める。
これが 外傷の再演(re-enactment)。
PTSDの核心にあるこの現象は、記憶の想起ではなく、心身の“再生”だ。
理性が「過去だ」と言っても、身体は「今だ」と叫び、恐怖はまるで新しい出来事であるかのように迫ってくる。
■ トラウマ記憶が「現在」を侵食するとき
外傷性記憶は、言葉ではなく、
感覚・情動・身体反応 として沈殿する。
だから、ほんのわずかな匂いの揺らぎ、光の角度、足音のリズム、声の質――
それらは日常の中に溶け込みながら、突然“鍵”へと変わり、
閉ざされていた扉を音もなく開いてしまう。
記憶が蘇るとき、人は過去と現在のあいだに線を引けなくなる。
身体は「ここではない、あの時」へ瞬時に連れ戻され、
胸は強く締めつけられ、筋肉は固まり、呼吸は浅くなる。
その反応のすべてが、外界ではなく、内側で再生されている脅威 に向けられている。
疲労、人間関係の緊張、孤独、睡眠不足。
こうした些細なひずみが積み重なると、
脳の警戒システムは休むことを忘れ、
無害な刺激さえ「再び襲ってくる危険」と誤って読み取ってしまう。
身体はもう安全であるはずなのに、
神経は過去のどこかに立ち尽くしたまま、
「次に何が起こるか」を必死に探り続けてしまうのだ。
その反応は異常ではない。
かつて身を守るために刻み込まれた、
生存のための知恵 が今も働いているだけである。
→ 関連:トラウマの種類とそれが引き起こす心と体の反応
■ 過去と現在が重なり合い、世界が歪む瞬間
再演の最中、身体は過去へ引きずられる。
胸の高鳴り、呼吸の浅さ、筋肉の強い緊張。
かつての恐怖を忠実になぞるように、身体は自動的に反応する。
このとき、心は二つの時間の境界線を見失う。
「いま」と「かつて」が溶け合い、世界はゆがみ、
人は現実の感触と内側の嵐の間で揺れ動く。
強烈な感情の奔流の中で、意識が遠のくように感じたり、
自分の身体が自分のものではないように思われたりする。
これはしばしば解離状態として現れ、
心と身体のつながりが一時的に途切れることで起こる。
→ 関連:解離とは何か|自分が遠のくとき身体で起きていること
■ 無害な対象が“危険の象徴”へと変貌する理由
再演は、日常の風景に突然「過去」の影を落とす。
似た声色、似た体格、似た匂い――
まったく別の人物が、かつての加害者と重なり、
本当は存在しないはずの危険が目前に立ち上がる。
筋肉は即座に硬直し、
逃げる衝動と戦う衝動が同時に湧き上がり、
心は「ここに居続けるべきか」「消えたいか」の間で裂かれる。
しかしこの反応は、理性の失敗ではなく 身体の成功 だ。
生き延びるために刻まれた反射が、今でもあなたを守ろうとしている証である。
■ 虐待環境で育った身体が覚えていること
幼い頃の家庭内暴力や怒鳴り声は、
身体に「危険が近づく音」を刻む。
親の足音、ドアが閉まる音、部屋の空気の変化――
こうした些細な刺激で肩や背中が硬直するのは、
かつて生存のために獲得した身体の叡智だ。
その反応が大人になっても消えないのは、
まだ解消されずに眠っている痛みや恐怖が、
静かに、しかし確かに内側で息をしているからだ。
→ 関連:毒親育ちの長女は病みやすい? 家族の犠牲が招く心の傷
■ “生存モード”が日常を覆うとき
安全なはずの場所でさえ落ち着かない。
スーパーの通路、人混み、職場、家庭の食卓でさえ、
どこかに危険が潜んでいるように感じてしまう。
人は無意識のうちに周囲の視線や気配、
人の動き、空気の変化を読み取ろうとし、
常に出口や逃げ場を探し続ける。
これは神経系が 「休んではいけない」 と学習してしまった結果であり、
怠惰でも弱さでもなく、長年にわたる警戒の積み重ねだ。
■ 再トラウマ化を防ぐために必要なのは“理解”ではなく“態度”
再演そのものよりも深い傷を残すのは、
周囲からの無理解である。
「気にしすぎ」「大げさだよ」
こうした言葉は、本人の神経系の緊張を一層強め、
「誰にも理解されない」という孤立感を深めてしまう。
必要なのは、評価ではなく 存在の肯定 だ。
「怖かったね」
「もう安全だよ」
この短い言葉が、
過敏に働く神経を静かにほどいていく。
■ 再演の意味――それは壊れた証ではなく、癒しの入口
外傷の再演は、単なる苦痛の反復ではない。
それは、心の底で長く押し込められてきたものが、
「もう一度見てほしい」と静かに手を伸ばす瞬間でもある。
安全な環境の中で、少しずつ過去と現在を分けていくと、
再演の記憶は、「いま」の脅威ではなく
「かつての出来事」として静かに収まる場所を見つけ始める。
回復とは、過去を忘れることではなく、
その記憶が現在を呑み込まなくなることだ。
再演は壊れた心の証ではない。
むしろ、身体があなたに語ろうとしている 回復への入口 である。
あなたはずっと生き延び続けてきた。
その事実こそが、これからの治癒を支えるもっとも確かな力だ。
よくある質問
Q1. 再演(再体験)とフラッシュバックの違いは?
A. どちらもPTSDの侵入症状ですが、フラッシュバックは視覚・聴覚・身体感覚などが一挙に蘇り、現在意識が薄れる度合いが強いときに使われることが多い用語です。再演/再体験はやや広い概念です。
Q2. 周囲はどう接すればいい?
A. 安全の確保→評価しない→落ち着くまで待つ→必要なら専門家へ。理由を詰問せず、**「今はつらいね。ここは安全だよ」**の一言が有効です。
Q3. 何がトリガーになる?
A. 音・匂い・季節・時間帯・言葉・ニュース・人混みなど多様。本人にも予測不能なことがあり、トリガーリストの可視化が役立ちます。
Q4. 自分でできる初期セルフケアは?
A. 呼気長めの呼吸(4-6秒吐く)/五感の定位(見える5つ…)/足裏の接地感覚/安全な人へ連絡/刺激を下げる(明かり・音・匂い)。
Q5. 受診やカウンセリングの目安は?
A. 睡眠・仕事/学業・対人関係に支障が出る/自傷・衝動が強い/抑うつや解離が続くときは、早めの専門支援を。
【執筆者 / 監修者】
井上陽平(公認心理師・臨床心理学修士)
【保有資格】
- 公認心理師(国家資格)
- 臨床心理学修士(甲子園大学大学院)
【臨床経験】
- カウンセリング歴:10年/臨床経験:10年
- 児童養護施設でのボランティア
- 情緒障害児短期治療施設での生活支援
- 精神科クリニック・医療機関での心理検査および治療介入
- 複雑性トラウマ、解離、PTSD、愛着障害、発達障害との併存症の臨床
- 家族システム・対人関係・境界線の問題の心理支援
- 身体症状(フリーズ・過覚醒・離人感・身体化)の心理介入
【専門領域】
- 複雑性トラウマのメカニズム
- 解離と自律神経・身体反応
- 愛着スタイルと対人パターン
- 慢性ストレスによる脳・心身反応
- トラウマ後のセルフケアと回復過程
- 境界線と心理的支配の構造
本書では身体と神経系の視点に加えて、感情・自己否定・人間関係のしんどさまで含めて、専門用語をできるだけ使わずに整理し、安心を取り戻す22のレッスンとしてまとめました。必要な方に届けば嬉しいです。