罪悪感とは、「自分は何か悪いことをしてしまった」「あれは自分のせいだ」という感覚を伴う感情です。単に「失敗した」という事実認識にとどまらず、その出来事の影響を、他者の苦痛や関係性の悪化と結びつけて受け取る点に特徴があります。「相手を傷つけてしまった」「迷惑をかけてしまった」「あの場の空気を壊したのは自分だ」という感覚が、心の内側で重く居座り続けるのです。
臨床心理学の文脈で見ると、罪悪感はしばしば自己評価や自尊心と深く結びついています。フロイト以降の精神分析では、罪悪感は「超自我(内面化された親や社会の声)」による自己への攻撃として理解されてきました。幼少期に「ちゃんとしなさい」「迷惑をかけるな」「人に恥をかかせるな」といったメッセージを繰り返し浴びると、その声はやがて外側からの叱責ではなく、内側の“常駐アナウンサー”のように変化していきます。何かつまずくたびに「やっぱりお前はダメだ」「また失敗した」と囁き続ける、この内的な批判者こそが、罪悪感を慢性的なものにしていきます。
機能不全家庭で育った人は、この超自我が特に苛烈になりやすいとされています。親の機嫌や気分に自分の安全が左右される環境では、「自分がしっかりしていれば、家は壊れない」「自分ががんばれば、親は怒らないはずだ」という誤った責任感が育ちやすいからです。
こうした背景については、
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一方、現代のトラウマ理論では、「罪悪感の一部は、防衛として機能している」とも考えられます。虐待や事故、災害、いじめ、性被害など、自分ではどうしようもない出来事に巻き込まれた時、多くの被害者は「自分が悪かったからだ」「もっと気をつけていれば」「あの時NOと言えたはずだ」と自分を責めます。これは、一見すると理不尽ですが、心の奥では「もし自分に原因があったのなら、次は気をつければ回避できるかもしれない」という希望のかけらを守ろうとする働きでもあります。完全な無力さに直面するよりも、「自分が悪かった」と感じるほうがまだ耐えやすい──その残酷な選択の結果として、罪悪感が固定化されるのです。
トラウマと身体反応の関係については、
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ユング派の視点では、罪悪感は「影(シャドウ)」との葛藤としても理解できます。私たちが認めたくない側面──怒り、嫉妬、攻撃性、弱さ、依存心など──が意識に浮かび上がってくるとき、そこには必ず葛藤が生じます。「そんな感情を持ってはいけない」「私はもっと聖人のようでなければ」と理想化された自己像が強ければ強いほど、その影とのズレが罪悪感や自己嫌悪として体験されます。本当は怒っていて当然の場面でも、「怒る自分=悪い自分」と感じてしまう人は、この影の問題を抱えやすいと言えます。
ここで大切なのは、罪悪感が決して「悪い感情」そのものではない、ということです。むしろ、罪悪感が生じるということは、「他者との関係を大事にしたい」「よりよく生きたい」という倫理的感受性がある証でもあります。問題なのは、それが過剰になり、反省を超えて「私という存在そのものが悪い」「生きていること自体が迷惑だ」という自己否定にまで拡大してしまうときです。そのとき、罪悪感はもはや自己成長を促す感情ではなく、自己破壊の刃へと変わってしまいます。
自己否定がどのように病理と結びついていくかについては、
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罪悪感の強い人に見られやすい特徴
──「性格の問題」ではなく、生き延びるためのパターン
1.低い自己評価と自己否定傾向
罪悪感が強い人は、自分の価値を低く見積もる傾向があります。何かトラブルが起きると、「あの場にいた自分が悪い」「もっとしっかりしていれば防げたはずだ」と、自動的に原因を自分に引き寄せてしまいます。たとえ実際には周囲の状況や他者の問題が大きく影響していたとしても、「最終的な責任は自分にある」と感じてしまうのです。
精神分析的には、これは「厳格な超自我」と「傷つきやすい自我」の組み合わせとして説明されます。「ちゃんとしていれば愛される」「迷惑をかけたら存在を否定される」といったメッセージが幼少期から刷り込まれると、心の中に「失敗=存在価値の喪失」という式が刻まれます。すると、少しのミスや曖昧さであっても、「自分はダメな人間だ」という全人格的な自己否定に直結しやすくなります。
機能不全家庭で育った子どもは、親の感情の責任を自分が引き受けることで、かろうじて家庭の均衡を保とうとします。「お父さん(お母さん)が怒っているのは、自分が悪い子だからだ」と感じていたほうが、「親が未熟だからだ」と認めるよりも、子どもの心には耐えやすいからです。このような「親を守るための自責」は、大人になってからも「何か起きたらまず自分を疑う」というパターンとして続いていきます。
2.他人の評価に過剰に揺さぶられる
罪悪感が強い人は、他人の表情や声色の変化に非常に敏感です。相手が少し黙り込んだり、メッセージの返信が遅れたりしただけで、「何か気に障ることを言ってしまったのでは?」「嫌われたかもしれない」と心がざわつきます。頭では「たまたま忙しいだけかもしれない」と理解していても、体のほうがすでに緊張状態に入り、心拍数が上がり、胃がキリキリする、といった反応が起こります。
ポリヴェーガル理論の観点から言えば、こうした人は他者の顔や声をスキャンする「社会交流システム」が、単なる「安全確認」のためだけでなく、「非難や拒絶のサインを探すレーダー」として過剰に働いている状態だと考えられます。過去に、人の機嫌の変化が実際に暴力や無視、拒絶と結びついてきた経験があると、そのレーダーは常にフル稼働のままになってしまいます。
また、HSP(感受性が深い人)や神経系の過敏さを持つ人は、そもそも他者の雰囲気や空気の変化を細かく感じ取りやすいため、「ちょっとした変化」を勝手に拡大解釈してしまうことがあります。「相手の不機嫌=自分のせい」という回路ができていると、まだ何も起きていないうちから罪悪感でいっぱいになってしまうのです。
3.自己主張への恐怖
──「NO」を言うと悪い人になる感覚
自分の意見や希望を伝えようとした瞬間、「わがままに見えないだろうか」「相手を傷つけるのではないか」と罪悪感が立ち上がり、言葉を飲み込んでしまう人も少なくありません。本当は疲れていて休みたいのに断れない、本当は嫌なのに「大丈夫です」と笑ってしまう──そんな場面は、臨床の現場でも日常的に見られます。
子どもの頃に「親の機嫌を損ねないこと」が生き延びる条件だった場合、このパターンは非常に強くなります。自分の欲求を少しでも出すと、親が怒鳴る、無視する、泣き出すなど、感情的な反応を返してきた経験が積み重なると、「自分の欲求=他者を傷つけるもの」という内的な等号が結ばれてしまいます。その結果、「NO」を言うことは、誰かを傷つける行為、ひいては「悪い人間」であることの証拠のように感じられてしまうのです。
現代のユング派の文脈では、こうした人は「他者の期待に過剰に同一化し、本来の自己を抑圧している」と表現されます。本当の自分を生きることと、誰かを裏切ることが、心の中でほとんど同義語になってしまっている状態です。
4.批判への過敏さ
──人格全体が否定されたように感じる
ごく小さな指摘や助言であっても、「自分という存在そのものを否定された」と感じてしまうことがあります。「ここはもう少しこうしたほうがいいね」という一言が、「あなたはダメだ」「価値がない」というメッセージに聞こえてしまうのです。その結果、必要以上に落ち込み、恥ずかしさや自己嫌悪で心がいっぱいになってしまいます。
これは、自己評価がもともと脆く、「うまくできているときだけ価値がある」という条件付きの自己イメージに縛られているときに起こりやすい反応です。精神分析では、こうした状態は「メランコリー的な自己攻撃」とも関連づけられてきました。失敗や批判をきっかけに、本来は外側に向けられるべき怒りや不満が、自分自身の内側に反転し、「どうしてこんなこともできないんだ」「自分なんか消えてしまえばいい」という形で自分を責めはじめてしまうのです。
5.過去に固執する
──「あのときこうしていれば」から離れられない
罪悪感が強い人は、過去の場面を何度も何度も頭の中で再生する傾向があります。「あのとき、ああ言わなければ」「別の選択肢を取っていれば」という“もしも”のシナリオに囚われ続けてしまうのです。実存主義的に言えば、これは「選べなかった選択肢への哀惜」であり、自由と責任を背負うことの重さに耐えきれないときに起こる自然な反応でもあります。
しかしトラウマ理論の観点から見ると、この反芻は単なる思考癖ではなく、「神経系が凍りついた瞬間に時間が止まってしまった状態」として理解されます。あの場面で言えなかった言葉、取れなかった行動、飲み込んだ怒りや悲しみが、身体のどこかに凍結されたまま残っている。その“未完了の経験”が、記憶の反復として何度も立ち上がってくるのです。
6.繊細さと感受性の高さ
罪悪感を抱えやすい人の中には、もともと感受性が非常に豊かな人が少なくありません。相手のちょっとした表情の曇りや声のトーンの変化、部屋の空気の重さなどを細かく感じ取ってしまうため、「自分が何かしてしまったのではないか」と自分を責める材料が増えてしまうのです。
本来、この繊細さは芸術的な感性や洞察力、共感性と深く結びつく重要な資質です。しかし、機能不全家庭や暴力的な環境の中では、「よく気づくこと」が身を守るためのセンサーとして酷使され、その結果、「人の機嫌を読み続ける生き方」が染みついてしまいます。そしてそのセンサーは、平和な環境に移ってもなお、罪悪感や不安という形で働き続けてしまうのです。
7.トラウマが罪悪感を増幅させる
虐待やDV、いじめ、性被害などのトラウマを経験した人の多くは、「自分が悪かったからこうなったのだ」というトラウマ性の罪悪感を抱えています。特に子ども時代の被害では、社会経験も認知能力もまだ十分に発達していないため、「あのとき抵抗できなかった自分が悪い」「誰にも言えなかった自分のせいだ」と自分を責めることで、状況を何とか理解しようとします。
しかし実際には、フリーズや解離、固まって声が出なくなるといった反応は、身体が生命を守るために選んだ防衛反応です。「何もしなかった」のではなく、「動けなかった」「声を出せなかった」のです。この違いを理解できるかどうかが、罪悪感からの回復において非常に重要になります。
罪悪感の強い人の心理状態
──「責任」と「自己攻撃」のあいだで揺れる
罪悪感が強い人は、ある出来事に対する責任感や後悔を手放せず、頭の中で何度も自分を裁き直す傾向があります。表面上は「自分が悪かった」と言いながら、その裏では「本当はあの人が悪い」「あの環境がおかしかった」という怒りや不信感が渦巻いていることも少なくありません。しかし、その怒りを外側に向けることに強い抵抗があるため、矛先はいつも自分自身に戻ってきてしまいます。
ここには、皮肉な形での「コントロール幻想」が潜んでいます。「自分が悪かったからああなったのだ」と考えるほうが、「自分にはどうしようもなかった」「ただ運が悪かった」「あの人が理不尽だった」と認めるよりも、ある意味では安心だからです。もし本当に、世界が理不尽で、自分が完全な被害者でしかなかったとしたら、人はあまりにも無力になってしまいます。その無力さに耐えられないとき、人はむしろ「自分が悪い」と感じるほうを選んでしまうのです。
現代精神分析や実存的心理療法では、この「自責」と「世界への不信」「他者への怒り」との微妙なバランスが重視されます。自分だけを責め続けている限り、本来は外側に向かうべき怒りや悲しみ、失望を十分に感じることができません。その結果、「自分への攻撃」は増え続ける一方で、「他者との境界線を引く力」は弱いままになってしまいます。本来なら「それはあなたの問題だ」「それ以上は踏み込まないでほしい」と言うべき場面でも、「自分が我慢すればいい」と飲み込んでしまい、その後で強烈な罪悪感と疲労だけが残る──そんなパターンが繰り返されます。
こころの回復にとって大切なのは、「罪悪感そのものをただ消し去る」のではなく、そこに含まれている本来の意味を丁寧にほどいていくことです。本当は誰に対する怒りなのか、本当はどんな悲しみが隠れているのか、本当はどんな願いが裏側で泣いているのか。それらを安全な関係の中で少しずつ言葉にし、身体感覚とともに確かめていくプロセスが必要になります。
カウンセリングでは、こうした「自己攻撃のループ」から少しずつ降りていき、自分と他者の境界線を引き直しながら、「責任を引き受けること」と「自分を罰すること」を分けていく作業を丁寧に行っていきます。
カウンセリング全体の流れについては、
👉 カウンセリングで得られる変化とは?どんな人に向いているのか
で解説しています。
罪悪感は、人間関係を大切にしたいというあなたの感受性の裏返しでもあります。ただ、その感受性が「自分を壊してしまう方向」に向かっていると感じるなら、それはすでに一人で抱え込むには重すぎるサインかもしれません。ここに書いた内容が、「なぜこんなに自分を責め続けてしまうのか」を理解するための手がかりになれば幸いです。
トラウマケア専門こころのえ相談室
公開 2025-12-08
論考 井上陽平
【執筆者 / 監修者】
井上陽平(公認心理師・臨床心理学修士)
【保有資格】
- 公認心理師(国家資格)
- 臨床心理学修士(甲子園大学大学院)
【臨床経験】
- カウンセリング歴:10年/臨床経験:10年
- 児童養護施設でのボランティア
- 情緒障害児短期治療施設での生活支援
- 精神科クリニック・医療機関での心理検査および治療介入
- 複雑性トラウマ、解離、PTSD、愛着障害、発達障害との併存症の臨床
- 家族システム・対人関係・境界線の問題の心理支援
- 身体症状(フリーズ・過覚醒・離人感・身体化)の心理介入
【専門領域】
- 複雑性トラウマのメカニズム
- 解離と自律神経・身体反応
- 愛着スタイルと対人パターン
- 慢性ストレスによる脳・心身反応
- トラウマ後のセルフケアと回復過程
- 境界線と心理的支配の構造