境界に立つ者は、どちら側にも属せない。
世界の歪みや暴力、秩序の偽りを、長い時間、受け続けてきた。
正気のままでは耐えきれず、生は切り離された。
死へ落ちないために、生きる感覚だけが、静かに奪われていく。
それでも身体は残り、呼吸だけが続く。
生きている。
だが、生の中にはいない。
これは狂気ではない。
崩壊ではなく、裂け目だ。
心身の衰弱と〈内的退避〉
長年の虐待や暴力にさらされた人は、心だけでなく身体そのものが衰弱していく。
体は痩せ細り、力を失い、神経は常に過覚醒と麻痺のあいだを揺れ動く。
あまりに過酷な体験の連続の中で、
人は現実に向き合う力を失い、内なる世界へと退避する。
妄想や空想の世界では、
自分を強く感じ、現実とは異なる力を持つことができる。
だが現実に戻ると、
生きながらにして死んでいるような虚無感だけが残る。
感情は押し込められ、
「何を感じているのか」が分からなくなる。
それは鈍さではない。
感じることが命の危険だった過去の名残だ。
▶ 関連記事
- 虐待サバイバーの罪と苦難:
https://trauma-free.com/living-dead/
狂気と正気の境界とは何か
狂気と正気の境界にいる人は、
現実を失った人ではない。
むしろ、
一度壊れた現実を、今も必死に保持し続けている人だ。
トラウマは、
「世界は安全である」という前提そのものを破壊する。
その瞬間から、正気は自然な状態ではなく、
維持し続けなければ崩れる構造物になる。
狂気ではなく「解離」という生存反応
「狂ってしまいそうだ」という感覚は、
狂気そのものではない。
それは、
解離が一時的に緩み、
再び現実に触れかけた瞬間に生じる恐怖だ。
心は完全に壊れることを避けるため、
現実との接触を弱める。
街角が遠のき、
自分が自分でなくなる。
これは崩壊ではない。
生き延びるための中間地帯である。
▶ 関連記事
- 解離とは何か:
https://trauma-free.com/dis/
奪われた自己 ―― フェアバーン
私は誰かに壊されたのではない。
誰かとの関係の中で、
自分を引き渡してしまったのだ。
拒絶されないために。
見捨てられないために。
生き残る居場所を失わないために。
フェアバーンが述べたように、
心は外傷的な関係でさえ、
唯一の生存手段として内在化する。
その結果、
自己の中心は空洞になり、
世界に触れようとすると、無意識に身を引く。
▶ 関連記事
内なる迫害者 ―― カルシェッド
「正気でいろ」
「これ以上壊れるな」
内側に響くその声は、敵ではない。
かつて自分を守った、残酷な守護者だ。
カルシェッドが描いたように、
トラウマの心には、
魂を守るために魂を凍らせる存在が生まれる。
狂気から守るために、生を切り離す。
死から守るために、生きる感覚を奪う。
だから私は、
生きているのに、生きていない。
〈境界に立つ者〉――ストロロウの視点
これは孤立ではない。
間主観性の崩壊だ。
誰とも共有できない感覚の中で、
世界の輪郭を探し続ける状態。
境界に立つ者は、
世界を最も深く知ってしまった人でもある。
壊れたのではない。
深すぎる場所を見てしまったのだ。
狂気は「異常」ではない ―― 神話的視点
神話的に見れば、
深く感じる者は、社会の周縁へと追いやられる。
文明に適応しすぎた世界では、
感受性の強さは危険視される。
だがその感受性は、
かつて共同体を支えていた
語り部やシャーマンの系譜に連なるものでもある。
狂気とは、
魂がまだ死んでいない証でもある。
終章|崩壊ではなく、下降
これは終わりではない。
神話において、下降は敗北ではない。
冥界は狂気の国ではなく、
失われた魂の部位が眠る場所だ。
私は自分を失ったのではない。
自分を探すために、
一度、姿を消している。
狂気に近づいているのではない。
私は、
自分自身に近づきすぎているだけだ。
【執筆者 / 監修者】
井上陽平(公認心理師・臨床心理学修士)
【保有資格】
- 公認心理師(国家資格)
- 臨床心理学修士(甲子園大学大学院)
【臨床経験】
- カウンセリング歴:10年/臨床経験:10年
- 児童養護施設でのボランティア
- 情緒障害児短期治療施設での生活支援
- 精神科クリニック・医療機関での心理検査および治療介入
- 複雑性トラウマ、解離、PTSD、愛着障害、発達障害との併存症の臨床
- 家族システム・対人関係・境界線の問題の心理支援
- 身体症状(フリーズ・過覚醒・離人感・身体化)の心理介入
【専門領域】
- 複雑性トラウマのメカニズム
- 解離と自律神経・身体反応
- 愛着スタイルと対人パターン
- 慢性ストレスによる脳・心身反応
- トラウマ後のセルフケアと回復過程
- 境界線と心理的支配の構造