人は本来、「十分に抱えられる環境」の中でだけ、自然に力を抜いて存在できる。
抱えられるとは、甘やかされることではない。ふらついたときに支えがあり、揺れたときに戻れる場所があり、感情が出ても世界が崩れないことだ。
けれど、幼いころから「迷惑をかけてはいけない」と教え込まれた人は、その抱えをほとんど受け取れなかった。
泣けば面倒、怒れば厄介、弱音は怠け、そんな空気の中では、子どもは「助けて」と言うほど危険になる。
だから身体は、自分で自分を支え続ける。
胸は固くなり、背中は張り、呼吸は浅くなる。
神経は休む場所を失い、眠っていてもどこかで警戒が消えない。
この状態は、気合や性格ではなく、神経系の学習だ。
「力を抜いた瞬間に、何かが起きた」
「頼った瞬間に、拒絶された」
「甘えた瞬間に、見捨てられた」
身体は、そうした出来事を“言葉ではなく反射”として記憶する。
子どもは、愛を失うくらいなら自分を失う
子どもは、自分を守るために親を切れない。
生存の基盤がそこにあるからだ。だから、子どもは選ぶ。
「本当の気持ちを切り捨てる」
「欲求を感じないようにする」
「怖さや怒りを凍らせる」
「“いい子”として存在する」
それは悲劇ではあるが、同時に、子どもなりの賢さでもある。
愛を失うくらいなら、自分を失う。
この選択が繰り返されると、内側にひとつの現実が刻まれる。
- 頼ると危険
- 甘えると見捨てられる
これは思想ではない。身体の前提になる。
大人になっても、その前提が消えない限り、“自立”は自由な選択ではなく、生存戦略のまま残る。
その結果、体はずっと戦場に立ち続ける。
「倒れてはいけない舞台」で起きるのは、偶然ではない
トラウマ、解離、パニックは、過負荷の神経系が命を守るために出す緊急ブレーキだ。
それは「壊れたサイン」ではなく、「壊れないための介入」でもある。
ここで重要なのは、発作が起きる場所だ。
多くの場合、発作は「逃げられない場所」で起きる。
職場、家庭、学校、親密関係。
そこは、倒れてはいけない舞台。
弱音を吐けない、助けを求められない、やめると言えない。
つまり、自分の身体を安全のために使えない場所だ。
だから身体は、舞台を強制終了するしかなくなる。
動悸、過呼吸、めまい、吐き気、手足のしびれ、意識の遠のき。
身体は激しいアラームを鳴らして、舞台を止めにかかる。
「私が弱いから」ではない。
あなたの身体が、あなたの命を守るために、最後のカードを切っている。
症状が“逃げ道”として働くことがある理由は、ここにある。
この話は、解離の仕組みとも深くつながっている。
→ https://trauma-free.com/dis/
欠乏は、身体から先に訴えてくる
ここまでの話を読むと、「じゃあ私は何が足りなかったのか」と考えたくなるかもしれない。
答えは、精神論ではない。
身体が必要としていたのは、次のような体験だ。
- 誰かがそばにいてくれた記憶
- 迷惑をかけても見捨てられなかった体験
- 崩れても受け止められた瞬間
これらは、慰めの言葉では代替できない。
神経系にとっての安全は、頭で理解するものではなく、体で知るものだからだ。
この欠乏は、身体が告げる“無言の訴え”でもある。
胸の硬さ、呼吸の浅さ、胃腸の不調、肩のこわばり、慢性的な疲労。
それらは、「もっと頑張れ」ではなく、「もう抱えられない」のサインだ。
身体が先に“降参”することで、やっと止まれる人がいる。
止まれないまま走り続けてしまう人ほど、身体が止めに来る。
ここまで来ると、本人は自分を責める。
「迷惑をかけたくないのに、迷惑をかけてしまう」
「頑張りたいのに、動けない」
その苦しさは、努力不足ではなく、神経系の限界として理解した方がいい。
トラウマによる身体症状の見え方はここにも整理している。
→ https://trauma-free.com/trauma/physical-trauma/
「守る」から「預ける」へ―回復の軸を入れ替える
「頭に集まった気を、骨盤と足裏へ戻すこと。
考えるより、感じること。
守るより、預けること。」
ただし、ここで誤解が起きやすい。
「預ける」は、いきなり信頼して無防備になることではない。
むしろ、預けても壊れない範囲を、少しずつ増やしていく作業だ。
頭に集まるとは何か
頭に集まっている状態は、ざっくり言えば「常時モニタリング」だ。
相手の機嫌、空気、評価、危険――それを読み続ける。
そのせいで身体の感覚は後回しになる。足の感覚が薄くなり、呼吸が浅くなり、今ここが遠のく。
骨盤と足裏へ戻すとは何か
骨盤と足裏へ戻すとは、「私はここにいる」と身体に言い直すことだ。
地面の硬さ、足裏の接地、重さの分散。
それを感じられた瞬間、神経系は“戦場”から半歩降りる。
守るより預けるとは何か
守るとは、孤軍奮闘だ。
預けるとは、関係の中で支えを受けること。
しかし「迷惑をかけてはいけない世界」で育った人は、預けることが怖い。
怖いのは当然だ。かつて預けた瞬間に、傷ついたのだから。
だから回復は、勇気の強さではなく、安全の設計になる。
小さく、確実に、戻れる範囲で。
具体的な身体アプローチの全体像はここにもまとめている。
→ https://trauma-free.com/treatment/somatic-experiencing/
回復は「発作を消すこと」ではなく、“安全を身体に上書きすること”
ここで、回復の定義をはっきりさせたい。
本当の回復は、発作を消すことではない。
回復とは、
迷惑をかけても安全な関係を、少しずつ体で知ることだ。
1)誰かに頼る練習
頼るとは、依存することではない。
「ここまでなら言っても大丈夫」を試すことだ。
たとえば「今日は少ししんどい」と言う。言ったあとに世界が終わらないと体で知る。
その反復が、神経系の前提を書き換える。
2)泣いても大丈夫な場所
泣くことは、弱さではない。
身体が緊張をほどく手段でもある。
しかし、泣いたことで責められたり、放置された経験がある人は、泣くこと自体が危険になる。
だから「泣ける場所」は、回復の装置になる。
3)意味のない時間
意味のない時間は、サボりではない。
神経系が“戦闘モード”を解除するための余白だ。
意味がない時間を持てない人は、常に「存在価値の証明」をし続けている。
それは生存戦略であって、休息ではない。
4)吐く息を長くする
呼吸は、神経系のスイッチに触れる。
吸うことより、吐くこと。
吐く息が少し長くなるだけで、身体は「いまは即死しない」と判断しやすくなる。
そして最後に、
5)「私はここに居ていい」が、足裏に宿る
この感覚は、胸ではなく足裏に宿る。
胸の安心は揺れやすい。人の目、言葉、評価でまた固まる。
足裏の安心は、地面とつながる。
戻れる場所が“外”ではなく“体内”にできたとき、回復は現実になる。
ここまでの回復設計を、より広い治療観の中で整理している。
→ https://trauma-free.com/treatment/trauma-therapy/
結び:あなたの体は、あなたを壊そうとしていない
もう一度、結論を言い切る。
あなたの体は、あなたを壊そうとしているのではない。
むしろ、あなたを生かし直そうとしている。
発作は、敵ではない。
それは「これ以上ここに居たら死ぬ」という場所で、身体が鳴らす非常ベルだ。
そして回復は、派手な勝利ではない。
小さく、地味で、確実な積み重ねだ。
迷惑をかけても大丈夫な関係。
泣いても見捨てられない場所。
意味のない時間。
吐く息。
足裏の接地。
そのひとつひとつが、神経系にこう言い直していく。
もう、戦場に立ち続けなくていい。
ここは、戻ってこられる場所だ。
心理療法やトラウマ治療の全体像を整理して理解したい方は、心理療法とは何か|トラウマ治療・カウンセリング・身体アプローチを統合的に解説をご覧ください。
【執筆者 / 監修者】
井上陽平(公認心理師・臨床心理学修士)
【保有資格】
- 公認心理師(国家資格)
- 臨床心理学修士(甲子園大学大学院)
【臨床経験】
- カウンセリング歴:10年/臨床経験:10年
- 児童養護施設でのボランティア
- 情緒障害児短期治療施設での生活支援
- 精神科クリニック・医療機関での心理検査および治療介入
- 複雑性トラウマ、解離、PTSD、愛着障害、発達障害との併存症の臨床
- 家族システム・対人関係・境界線の問題の心理支援
- 身体症状(フリーズ・過覚醒・離人感・身体化)の心理介入
【専門領域】
- 複雑性トラウマのメカニズム
- 解離と自律神経・身体反応
- 愛着スタイルと対人パターン
- 慢性ストレスによる脳・心身反応
- トラウマ後のセルフケアと回復過程
- 境界線と心理的支配の構造
本書では身体と神経系の視点に加えて、感情・自己否定・人間関係のしんどさまで含めて、専門用語をできるだけ使わずに整理し、安心を取り戻す22のレッスンとしてまとめました。必要な方に届けば嬉しいです。