トラウマの内なる世界は、森の中に築かれた入り口のない塔に閉じ込められたラプンツェルのような世界です。複雑なトラウマを経験すると、痛みが身体に刻まれ、軟弱になり、石橋を叩いて渡るような人生を送る人もいます。彼らは、外界からの精神的な干渉が苦手になります。さらに、脅かされることが続くと、強い恐怖心を持つようになり、性格は慎重になって、引っ込み思案で大人しくなります。外に出る勇気を持てず、行動することができず、生きる力が奪われていきます。
複雑なトラウマを経験した人は
複雑なトラウマを経験する最初の体験は、人によって異なりますが、胎児期や乳児期から不運な体験をしている場合もあり、痛みや不快感を抱えているかもしれません。複雑なトラウマを経験する過程で最も一般的なのは、親が恐怖を与える主要な原因であることが多く、そのような親のもとで育った子どもは、親の前では不自然でぎこちない行動を取り、親につながりと愛着を求めて傷ついていく部分と、傷ついた自分を守らなければいけないために防衛的な部分の2つに分かれることがあります。
複雑なトラウマを経験する過程で、両親との関係がこじれていき、これ以上傷つくことから避けようとしてトラウマの内なる世界に閉じこもろうとします。彼らは、この世界が安心して広がっているわけではなく、親に対する不安が先行するため、親の顔色を伺うようになり、何かを言ったり行動したりするたびに親から怒られるか、親に心配させて迷惑をかけてしまうと思ってしまいます。何か起きるたびに不安になり、次なる一歩を踏み出すことができなくなり、落胆し、心を閉ざしてしまいます。親が自分に恐怖を与える主要な原因である場合、自分の感情を出すことが危険になるため、何も言えなくなり、身動きが取れなくなります。この世界への信頼感が失われ、一人でいることが好きになり、絵を描いたり、本を読んだり、空想に耽るようになるかもしれません。
一人の空想の世界では、誰にも批判されないため、ありえないほど理想的で心地よい世界を求めて空想に耽ることがあります。たとえば、私を理解してくれる王子様がいつか自分を迎えに来てくれるという安心できる幸せな世界を空想し、その世界の居心地の良さに浸ることがありますが、現実の過酷で悲惨な世界に取り残されていることが変わりません。現実の出来事は常に動いているにもかかわらず、自分の中では現実感が無いまま時間だけが過ぎてしまうことがあります。
外傷体験による人格の分裂的現象
人は、生死を分かつような極限の危機状態に対処できないと、無力な状態に陥り、生命の危機に直面することがあります。そして、そのような状況で不思議な力が宿り、自分ともう一人の救世主のような存在が現れ、その危機に立ち向かいます。もう一人の存在は天から降りてきて、不思議なほど冷静な声で、諦めないように励ましてきます。これは守護天使と呼ばれる存在であり、困難な状況に直面したときに助言を与えたり、苦難に立ち向かう勇気を与えたりします。
ユング派のD・カルシェッドによると、複雑なトラウマを受けた人の内なる世界では、セルフ(ユング派の自己)が2つに引き裂かれてしまい、自己の進化した部分と退行した部分の神話化されたイメージは、こころの元型的なセルフケア・システムを作っています。このシステムは、心の自己保存力のある操作が、太古的で典型的なところから、また、通常の自己防衛より早期で原始的なところから、元型的であると述べています。
自己の進化した部分と退行した部分は、一般的には二人組で存在します。自己の退行した部分は、親とのつながりを求めて彷徨う子どもの部分であり、本当の親や自分をもらってくれる新しい家族に巡り合うことを夢見ています。一方、自己の進化した部分は、危機への対処のため、防衛戦略を張り巡らし、自分の生活を外から冷静に観察している部分であり、生き残りをかけて成長し、あまりにも早く育ち、外の世界に過剰適応します。そして、その子(退行した部分)の物語を作ろうとしており、本当に安心して生き生きとして生きられるような場所を探しています。
自己の退行した部分(インナーチャイルド)
複雑なトラウマを抱える人は、愛着を求めて居場所を彷徨う子どもの部分が、時間が止まって成長していないことがあります。時間が経過しても、自然に回復するわけではなく、親との関係に疲れ果て、虚脱し、致命的な痛みを負って、そのまま消えてしまう場合もあれば、ほとんど姿を現さなくなる場合もあります。この子どもの部分は、地下室で死体となっていたり、怪物に食べられていたり、誰にも見つからない場所に隠れて休んでいるかもしれません。
暗い閉所に閉じ込められた子どもの部分は、凍えるような寒さを感じ、灯りひとつない部屋にいるかもしれません。暗闇の中で、ひとりぼっちにされて寂しく、扉は堅く閉ざされているかもしれません。一人で外傷体験の記憶を抱えて座っており、孤独感や恐怖心に包囲されて、体も頭もおかしくなって動けなくなります。誰にも頼れない状況の中でも、それでも心の奥底では人を信じたり、誰かに助けを求めるように泣き続けて、いつか誰かが自分を助けてくれることを待ち続けています。
自己の進化した部分(保護者)
自己の進化した部分は、子どもの保護者になり、子どもの部分がこの世界での居場所を失ったときに、自分の内的世界に保護するように留めておき、優しく抱きしめたり、温めようとします。この保護者の部分がトラウマの内なる世界の物語を紡ぐ存在になるかもしれません。保護者の部分は、生存を司る存在で、表の世界にはあまり出ず、背後にいて、秩序だった世界を求めるあまりに過酷な精神に変貌することもあります。この部分が支配すると、外部からの刺激や情報を遮断し、厳格なルールや秩序を求めるようになることがあります。
カルシェッドによると、保護者の部分は、複雑なトラウマを抱えた人の断片的で傷つきやすい部分を、あたかも再び暴行を加えられることから守ることが目的とされています。この保護者の部分は、内側で傷つきやすい子どもの部分を慰め、保護し、同時に外部からの恥ずべきものとして隠蔽する存在とされています。このようなダイモン的存在は、一種に守護天使であるとも言えます。彼らは、患者の内なる世界に存在し、傷ついた部分を守り、癒し、成長させるための力を与えます。
日常生活を送る私の背後には、保護者の部分が存在し、その部分は攻撃的で暴力的な存在でもあり、同時に生のエネルギーを与える源泉でもあります。保護者の部分は外傷体験から距離を置き、冷静に全体を俯瞰し、適切な答えを見つけるために常に考え続けてきました。
保護者の部分は、自分の信念や価値観に基づいて行動することが多く、他人の意見や感情にはあまり敏感ではありません。このため、日常生活を送る私に対して厳しい言葉を浴びせることもあります。しかし、保護者の部分は本来、私を守るために存在しており、過度に攻撃的な態度を取る存在ではもともとありません。保護者の部分は、私が再び傷つかないように、あくまでも警告する意図で否定的な言葉を使うことがあります。保護者の部分は、私を守りながらも、孤立や社会的関係の破壊を招くことがあるため、バランスを取りながら接していく必要があります。
カルシェッドによれば、原始的防衛は、過去のトラウマや危機状況での反応のレベルにとどまり、現実的な危機について何も学びません。そのため、原始的防衛は、意識の魔術的レベルで機能し、再び外傷を受ける可能性がある新しい機会を脅威とみなし、攻撃的な反応を示すことがあると述べられています。このような防衛機制は、過去のトラウマに対処するためには役立つかもしれませんが、現実的な危機に対処するためには、適切なアプローチではありません。
日常生活を送る私にとって、新しい出会いや人間関係を築くことは、保護者の部分にとっては再外傷の危険な脅しとなり得ます。たとえ相手が好意を持ってくれていても、「お前の思っている人じゃない」「下らない奴らばかりだ」「また期待しても裏切られるだけだよ」といった否定的な発言をして、人間関係を遠ざけるように働くことがあります。保護者の部分は、自分自身や日常生活を送る私を守ろうとする一方で、新たなチャンスや可能性を見逃してしまうこともあるようです。
保護者の部分は、トラウマを抱えた人が安全に生きるために、希望や幸せな関係を持つことを恐れることがあります。何度も傷つき、痛みを味わった経験から、保護者の部分は自己を守るために、過剰な警戒心を持ち、自分の感情や欲求を抑えることがあります。もし期待が裏切られた場合、想像を絶するほどの感情を体験して、精神が崩壊してしまうことがあるため、保護者の部分はそのような状況を回避するために、人間関係を避けたり、遠ざけたりすることがあります。
しかし、保護者の部分は、普段は日常生活を送る自己を応援し、知恵を授けて、回復薬となったり、創造性を担います。保護者の部分は、トラウマを抱えた人が新しい経験をする際には、傷つかないように手助けしたり、適切な判断を下すことでサポートします。保護者の部分は、トラウマを抱えた人が回復するためには必要不可欠な存在であり、安心感を与え、自己を守りながらも成長し続けることを可能にします。
保護者の部分が存在することによって、トラウマを抱えた人は、自分を包んでくれる存在がいることを感じ、純粋な魂を持ち続けることができるかもしれません。保護者の部分が内的な世界を発展させることで、高潔に生きることを可能にすると同時に、希望を持てたときは元気になり、勇敢に行動することもできます。しかし、ちょっとしたことでも傷つき、崩壊してしまうことがあるため、人間関係においても、真に結びつけることができず、不毛な状態に陥ることがあります。
トラウマケア専門こころのえ相談室
公開 2022-12-20
論考 井上陽平

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