はじめに:遠ざかる幸福、近づく痛み
マゾヒズム傾向をもつ人にとって、「幸せ」はまっすぐ向かえば手に入る目的地ではありません。
それは、近づけば近づくほど輪郭がにじみ、指先が触れそうになる瞬間にふっと遠ざかる蜃気楼のようなものです。
誰かに大切にされそうになるとき、
仕事や創作がうまく回り始めたとき、
「これが続けばいい」と思ったその直後に、
胸の奥から説明のつかない不安や罪悪感がせり上がり、
自分から壊してしまう行動へと滑り落ちてしまう。
怒りっぽい恋人や支配的なパートナーを選んでしまう、
自分を消耗させる職場から離れられない、
心身に負荷をかける行為(過労、危険行為、自傷的な性行動など)に安堵を感じる――。
外側から見れば「どうしてわざわざしんどい方を選ぶのか」と首をかしげたくなる選択の裏側で、
当人はむしろ、痛みの方にかすかな安らぎや“落ち着き”を感じていることがあります。
ここで問われるべきなのは、
「なぜそんなことをするのか」と責めることではなく、
なぜ痛みだけが“信じられるもの”として残ったのかという構造です。
トラウマがつくる分裂:心と身体がすれ違うとき
マゾヒズムの背景には、多くの場合、幼少期からの慢性的なトラウマ体験があります。
暴力・暴言・無視・過干渉・感情的な支配。
それらは単発の出来事ではなく、「空気」として長期間続き、
心と身体を結びつけていた細い糸を、少しずつほつれさせていきます。
心は圧倒されすぎると、現実から退避しようとします。
理想や観念にしがみついたり、豊かな空想世界に沈み込んだり、
世界を抽象化して“感じすぎないように”工夫します。
空想は敗北ではなく、混沌から自我を守るための防御機制です。
一方、身体は、決して夢を見てくれません。
首や肩の持続的なこわばり、みぞおちの硬さ、
浅く速い呼吸、理由の分からない吐き気、小さな震え。
それらは「ここは安全ではない」というメッセージを、
言葉に頼らずに送り続けます。
こうして、
「頭で分かる自分」と「身体が記憶している自分」が、別々の方向を向き始める。
心は秩序と正しさへ、身体は危険の記憶へ。
その分裂した二つの軸のあいだで、マゾヒズム的な欲動は静かに芽生えていきます。
「服従としての愛」を学んだ子ども時代
マゾヒズムを理解するには、単に性的嗜好や「痛みが好き」という表層の話では足りません。
もっと根っこにあるのは、**「服従することでしか愛に触れられなかった幼少期」**です。
家庭の空気を読み、波風を立てないことが、生き残る条件だった子ども。
親の声のトーン、眉の動き、食卓の沈黙。
ほんのわずかな変化から、「これは怒りに変わる前兆かどうか」を素早く見抜こうとする。
その環境で学習されるのは、
「愛されるには、自分を削らなければならない」
「怒られないこと=存在価値」
という、言葉にならないルールです。
欲求を伝えることは、危険です。
拒否されるか、怒りを買うか、冷たく無視されるか。
それなら最初から、自分の欲求などなかったことにしてしまった方が安全です。
こうして、
「愛されるために自分を差し出す」
という構図が、早い段階で身体に刻まれていきます。
この戦略は、子ども時代には確かに命を守りました。
しかし、大人の対人関係に持ち込まれると、
支配・搾取・服従のパターンを繰り返し、
内側の空洞化と自己卑下を深めていきます。
(こうした愛着や機能不全な家族の影響については、→ 愛着・対人関係・人格の問題
トラウマやCPTSDの記事群 → トラウマ・CPTSD関連 の中でも詳しく扱っています)
日常に忍び込むトリガーと、「従えば過ぎる」という防御
「もう終わったこと」「昔の話」と頭では理解していても、
身体は別の時間を生きています。
誰かのちょっとしたため息、
予定外の予定変更、
突然の大きな音、
親密な人の不機嫌そうな表情。
それらは、現在進行形の危険ではなくても、
過去の記憶と結びついて瞬時にトリガーとなり、
心拍を上げ、呼吸を浅くし、思考を白く塗りつぶします。
その瞬間、
「反発したい衝動」と「すぐに従ってやり過ごしたい衝動」が同時に立ち上がります。
怒りたいのに笑ってしまう。
嫌なのに「大丈夫です」と言ってしまう。
離れたいのに、見捨てられるのが怖くてしがみついてしまう。
これは性格の弱さではありません。
支配と危険に晒された神経系が、かつての“生き延び方”を忠実に再現しているのです。
マゾヒズム的な選択――自分を低く置き、相手の欲望や攻撃を受け入れることで関係を維持しようとする――は、
この瞬時の防御反応と深く結びついています。
「反抗して壊れるくらいなら、自分が苦しむ方を選ぶ」
という、悲痛な合理性がそこにはあります。
解離という生存戦略と、「痛みで輪郭を取り戻す」こころ
解離が強くなると、心と身体の接続はさらに薄くなります。
自分の身体を、どこか遠くから眺めているような感覚。
時間の連続性が途切れ、気づけば数時間が飛んでいる。
自分が喋っているのに、自分の声が自分のものではないように聞こえる。
日々のストレスや過去のトラウマが積み重なるほど、
現実から“少し離れる”ことは、耐え難い苦痛から自我を守るための、最後の安全装置になります。
しかし、解離が強まりすぎると、
「生きている実感」そのものが失われていきます。
何をしても手応えがなく、
喜びも悲しみも、どこか他人事のように感じられる。
虚無と空洞だけが広がる。
このとき、一部の人にとって、**痛みは「自分の輪郭を取り戻す手段」**として現れます。
切りつける痛み、
過剰な運動や仕事、
極端な性的体験、
人間関係における“わざと傷つく”ような選択。
どれも、外側から見れば「なぜそんなことを」と思えるものですが、
当人にとっては、
「何も感じないより、まだマシ」
「痛みを感じている間だけ、自分がここにいると分かる」
という、切実な自己確認の試みでもあります。
関連記事 → 自傷行為のメカニズムと支配-服従関係の心理的影響
なぜ痛みが安らぎになるのか:神経のリズムと反動
痛みは、まず交感神経を急激に高めます。
心拍が上がり、血圧が上昇し、筋肉は緊張し、
全身は「闘う/逃げる」準備を整えます。
ところが、そのピークを越えると、
身体は自然と反動をもたらします。
呼吸は少し深くなり、血管は拡張し、
筋肉はじわじわと弛緩へ向かう。
この 「緊張の極み → 反動としての弛緩」 の過程が、
一時的な安堵感や陶酔感を生み出します。
解離によって自分の輪郭を失っていた人にとって、
この生理的な波は、
「いま・ここ・わたし」という感覚を取り戻す、
数少ない手段になりえます。
痛みはまた、注意を一点に集中させます。
過去のフラッシュバックや将来の不安で散り散りになっていた意識が、
「ここが痛い」という一点に集約される。
その凝縮感が、「何も感じない」よりも安心してしまうことがあるのです。
だからこそ、痛みが安らぎになる。
これは、歪んだ欲望というより、
神経系が自らの均衡を取り戻そうとする、極端なセルフメディケーションでもあります。
ただし、この回路は短期的には効いても、
長期的には自己否定や再虐待的な関係を強化し、
トラウマのループを深めてしまう危険を孕んでいます。
問題は「安らぎを感じること」そのものではなく、
“安らぎまでの経路が、あまりにも過酷である” という点にあります。
自己罰と「きれいになりたい」願望
罪悪感が強い人ほど、マゾヒスティックな自己罰の衝動に駆られやすくなります。
・あのとき助けられなかった
・本当は嫌だったのに頷いてしまった
・怒りに任せて大切な人を傷つけてしまった
こうした記憶の周りに、
「自分だけが楽になってはいけない」
「罰を受ければ、少しはラクになれる」
という感覚がまとわりつく。
自己罰は一瞬、均衡を与えます。
「これだけ苦しんでいるのだから、少しは許されるかもしれない」と感じさせてくれるからです。
しかし、同時に
「やっぱり自分は罰を受けるべき存在だ」という信念を深めもします。
ここで重要なのは、
自己罰の根底には、破壊冲動だけでなく、
「浄化されたい」「軽くなりたい」「許されたい」という切実な願いが潜んでいることです。
罪悪感の裏側には、
安心、理解、つながり、尊敬、責任の取り直し――
本来は建設的な欲求が隠れています。
もしそれを言葉にできれば、
自己罰ではなく、
・休息を取る
・誰かに打ち明ける
・傷つけた相手に謝罪する
・小さな善行や寄付をする
・もう一度、別のやり方で挑戦する
といった回復的な行動へ翻訳し直すことができます。
そのとき、浄化は「自分を傷つけてチャラにすること」ではなく、
自分と他者との関係を修復しなおすプロセスに変わります。
伝統療法と身体技法をどう位置づけるか
アヤワスカに代表されるシャーマニック儀礼や、
嘔吐を伴う浄化儀礼、極端な断食、身体苦行。
こうしたものは古来、「痛みを通して魂を浄化する」手段として用いられてきました。
ただ、現代のトラウマ臨床の観点から見れば、
急激な意識変容や強烈な身体反応は、トラウマ記憶を再活性化させる危険をはらんでいます。
法的・医学的なリスクも大きく、個人判断での実施は勧められません。
一方で、鍼灸やオステオパシー、ゆるやかな身体技法は、
比較的穏やかな介入で自律神経や血流に働きかけ、
こわばりや睡眠・不安の軽減を実感する人も少なくありません。
重要なのは、
どの方法を選ぶにせよ、
有資格者・信頼できる専門家へ相談すること
既往歴や服薬状況をきちんと伝えること
「劇的な変化」よりも「安全と予測可能性」を優先すること
です。
この文章は、特定の療法を勧めるものではありません。
マゾヒズムや「浄化願望」が、なぜ特定の療法や儀礼に惹かれやすいのか――
その背景理解を深めるための位置づけに留めています。
痛みの回路を静かに組み替える
マゾヒズム的な回路を、
「一切なくしてしまう」のは現実的ではありません。
それは、極限状況を生き延びるために獲得した知恵であり、
すべてを否定しようとすると、
かえって自己全体を否定することにつながってしまうからです。
私たちが目指すのは、
“痛みを媒介しなくても安らげる神経の経路”を、少しずつ増やしていくことです。
激しい儀式も、劇的な気づきも必要ありません。
効いてくるのは、多くの場合、退屈なほど地味な反復です。
・足裏が床に触れている感覚を、数十秒だけ意識する
・「長く吐いて短く吸う」呼吸を、1日のどこかで数分だけ行う
・顎や肩、骨盤周りを「ぎゅっと締めて、ふわっとゆるめる」を何度か繰り返す
・一日の終わりに、
「事実」「そのときの感情」「本当は望んでいたこと」を、各一行ずつノートに書き出してみる
こうしたささやかな実践は、
神経系にとっては、「痛み以外にも調整の方法がある」という学習になります。
関係の中では、
「どこまでなら差し出せるか」「どこからは守りたいか」を
時間や回数で具体化することが役立ちます。
・週にどれくらい相手の相談に付き合うのか
・身体を貸す/貸さない条件は何か
・疲れを感じ始めたサインはどこか
曖昧な「いい人」でいるのではなく、
境界線を具体的に引き直すことは、
マゾヒズム的な犠牲のパターンを緩めるうえで、非常に重要な作業です。
必要に応じて、トラウマ焦点療法、EMDR、スキーマ療法、精神分析的心理療法など、
専門家との長期的な取り組みが役立つ場合もあります。
感受性が深く、傷を負いやすい人ほど、
自分一人で抱え込まず、誰かと一緒に神経系を整えていくことがとても大切です。
(深い感受性と生きづらさについては → 深い感受性とトラウマ・神経系 も参考になります)
おわりに:弱さではなく、極限状況を生き抜いた知恵としてのマゾヒズム
痛みが安らぎになるとき、
その人は決して「異常な嗜好を持つ弱い人」ではありません。
それは、圧倒的な環境の中で、
心と身体がギリギリのところで編み出した生存戦略です。
もちろん、その戦略は今のあなたの生活にとっては過剰で、ときに破壊的でもある。
だからこそ私たちは、
「安らぎそのもの」を否定するのではなく、
「そこへたどり着くまでの回路」を静かに組み替えていこうとするのです。
身体の落ち着き、
言葉による意味づけ、
境界線の線引き、
信頼できる他者との予測可能な関係。
そのひとつひとつが、「痛み」以外の安息の候補として、
ゆっくりと神経系に学習されていきます。
変化は派手ではありません。
劇的なカタルシスの代わりに、
「昨日より少しだけ、自分を傷つけずに済んだ」という微細な変化が積み重なっていく。
それでも、
今日、呼吸を一回ていねいに行うこと、
今日、ほんの少しだけ自分に優しい選択をすることは、
確かに、明日の安定を支える材料になります。
マゾヒズムは弱さの証明ではなく、
**かつての絶望の中で作られた“生の知恵”**です。
その知恵を丸ごと否定するのではなく、
今のあなたにふさわしいかたちへと作り替えていくこと。
その長いプロセスの中で、「痛み」と「安らぎ」の位置関係も、
少しずつ、変わっていくことができます。
【執筆者 / 監修者】
井上陽平(公認心理師・臨床心理学修士)
【保有資格】
- 公認心理師(国家資格)
- 臨床心理学修士(甲子園大学大学院)
【臨床経験】
- カウンセリング歴:10年/臨床経験:10年
- 児童養護施設でのボランティア
- 情緒障害児短期治療施設での生活支援
- 精神科クリニック・医療機関での心理検査および治療介入
- 複雑性トラウマ、解離、PTSD、愛着障害、発達障害との併存症の臨床
- 家族システム・対人関係・境界線の問題の心理支援
- 身体症状(フリーズ・過覚醒・離人感・身体化)の心理介入
【専門領域】
- 複雑性トラウマのメカニズム
- 解離と自律神経・身体反応
- 愛着スタイルと対人パターン
- 慢性ストレスによる脳・心身反応
- トラウマ後のセルフケアと回復過程
- 境界線と心理的支配の構造