心の中に空いた穴はなぜ埋まらなかったのか──闇と光のあいだで生きる人

私たちの心の奥底には、誰にも見せることのない「暗闇」が存在しています。
精神分析の臨床家が語るブラックホールとは、幼少期のトラウマや、言葉にならない恐怖の体験が心の中に作り出した「空白」を象徴するものです。

それは目に見えないにもかかわらず、確かにそこに存在し、感情や人間関係、そして生き方そのものに、静かで強烈な影響を与え続けています。


ブラックホール――心を引きずり込む“見えない力”

複雑なトラウマを抱えた人々の心の中には、このブラックホールが常に潜んでおり、その内部では、強烈な感情や忘れたい記憶が圧縮されたまま渦を巻いています。

普段は意識の表面に現れません。
仕事をし、人と話し、日常を送っているあいだも、その存在は水面下で静かに息づいています。

しかし、ある瞬間――
人の声の調子、視線の変化、沈黙の間、匂い、音、光。
そうした些細な刺激を引き金に、ブラックホールは突然姿を現します。

その引力は、自分の意思では抗えないほど強烈です。
一度引きずり込まれると、混乱や恐怖、絶望が一気に押し寄せ、思考も感情も制御不能になります。

これは単なる感情の爆発ではありません。
過去に受けた傷が、時間を超えて現在に侵入してくる現象です。

日常の中で抑え込まれてきた恐怖や悲しみ、怒りが噴き上がり、
その渦の中で自分を見失ってしまう。
周囲の状況や人間関係に正常に対処できなくなり、
「すべてを失ってしまったような感覚」に包まれることもあります。

この「過去が現在を侵食する」構造は、解離や意識の飛び、時間感覚の歪みとしても現れます。
詳しくは、解離の基礎を扱った
「解離とは何か?原因・症状・治し方」
で、心の防衛としての解離の全体像を整理しています。


ブラックホールは「感じられなかった体験」でできている

心のブラックホールは、単に「辛い記憶が詰まっている場所」ではありません。
むしろその正体は、当時“感じることが許されなかった体験”が、未処理のまま残された領域です。

怖かった。
悲しかった。
助けてほしかった。
怒りたかった。

しかし、それを感じること自体が危険だった環境では、
感情は表に出る前に封じ込められます。

泣けば怒られる。
怖がれば弱いと言われる。
怒れば見捨てられる。

そうして感情は「感じられないまま」心の奥へ押し込められ、
時間の流れから切り離された状態で凍結されていきます。

ブラックホールとは、
記憶そのものではなく、感じきれなかった感情の集積なのです。

だからこそ、それは思い出そうとしなくても突然現れます。
理屈ではなく、身体と情動のレベルで現在に噴き出してくる

これは過去に戻っているのではありません。
過去が、今になって初めて「感じられようとしている」現象なのです。


光に憧れながら、闇を生きる——孤独な心の戦い

闇の中を生きる人は、決して光を忘れているわけではありません。
むしろその逆で、「本当は明るく、自由に、笑って生きたい」という切実な願いを、誰よりも強く抱えています。

しかし、現実の感覚は深い闇に覆われ、光はいつも遠く、届かない場所にあるように感じられます。

街を歩くだけでも心が痛む。
人々が笑い合っているのを見て、「あの世界はもう二度と自分には開かれない」と感じてしまう。

まるで世界が二重構造になり、

  • みんなが生きている明るい世界
  • 自分だけが閉じ込められている、色の薄い世界

この二つが、重なりながら決して交わらないような感覚。

この「光と闇の二重世界」は、トラウマを抱える人が感じる存在の孤立そのものです。
他者と関わろうとしても、心のどこかで「どうせ理解されない」と感じ、距離を置いてしまう。
そうして孤独が深まり、世界の光はますます遠ざかっていきます。

それでも、心の最も奥深くでは、
「いつかこの闇を抜け出したい」「本当に安心できる場所に帰りたい」
という微かな願いが消えることはありません。

闇の中で生きるということは、同時に“光への渇望”を抱え続けることでもあるのです。


希望と絶望のはざまで——揺れ動く心の風景

どんなに深いトラウマを抱えていても、人の心には必ず「希望の灯火」が存在します。
それは小さく揺れる、頼りない光かもしれませんが、完全に消えてしまうことはありません。

サバイバーの心を包むのは、

  • 苦悩
  • 孤独
  • 無力感
  • 失望
  • 自己否定

といった感情の波です。
これらが周期的に押し寄せ、光をかき消そうとします。

少し元気になって、「前に進めるかもしれない」と思ったその翌日に、
理由もなく奈落の底へ落ちていくような感覚に襲われる。

「良くなってきたと思ったのに、またダメになった」
この自己評価のゆらぎこそ、希望と絶望のはざまで揺れる心の風景です。

実は、回復が進むほど、
今まで麻痺していた感情が“再び感じられるようになる”ため、
一時的にしんどさが増したように感じられることがあります。

これは「悪化」ではなく、
心が凍結状態から解け始めたサインである場合も少なくありません。


心のブラックホールに囚われる——恐怖とフリーズ反応の実体

トラウマのブラックホールに囚われた人は、
まるで薄氷の上を歩くような不安定な日々を送ります。

体は過去の記憶を覚えており、
何気ない音や言葉、匂いが引き金となって当時の恐怖が再現されます。

  • 突然、全身が硬直する
  • 呼吸が浅くなり、胸が締めつけられる
  • 周囲の音が遠くなり、「自分がここにいない」ような感覚になる

これは**フリーズ反応(凍りつき)**と呼ばれるもので、
逃げることも戦うこともできなかったときに、
身体が最後に選ぶ「生き延びるための手段」です。

「嫌なことがあると急に眠くなる」「急に意識が遠のく」
といった形で現れることもあります。

この“強制的なシャットダウン”については、
「嫌なことがあると眠くなる病気」:解離による眠気とトラウマ反応
で、過覚醒とシャットダウンの連続として詳しく説明しています。

ここで大切なのは、

「フリーズする私は弱い」のではなく、
「フリーズするほどの環境に、長く晒されてきた」という事実

を見つめ直すことです。
自分を責めるべきなのは「反応」ではなく、
その反応を必要とするほど追い詰められた状況の方なのです。


なぜ人はブラックホールから「戻れない」と感じるのか

「もう戻れない」
「ここから抜け出す方法が分からない」
「このまま壊れてしまう気がする」

この感覚は誇張ではありません。
なぜなら、フリーズ反応が起きている最中、神経系は“時間の感覚”を失っているからです。

今ここにいる大人の自分と、
かつて逃げ場のなかった子どもの自分が、
同じ身体の中で重なってしまう。

理性では「大丈夫だ」と分かっていても、
身体は「終わらない危険」の中にいる。

このズレが、
「分かっているのに戻れない」
「助けを求めたいのに声が出ない」
という感覚を生み出します。

重要なのは、
この状態では意志や努力はほとんど機能しないという事実です。

戻れないのは弱さではありません。
神経系が、かつて“戻れなかった状況”を再生しているだけなのです。


闇と向き合い、光を見出す——心の再生のプロセス

心のブラックホールとは、過去のトラウマと未解決の感情が作り出す深い虚無の象徴です。
そこに飲み込まれないために必要なのは、
**「自分の反応を理解すること」と「身体の声を聞き直すこと」**です。

トラウマケアや心理療法の現場では、次のようなプロセスが重視されます。

  • 自分に何が起きているのかを、言葉と概念で理解すること
  • 心だけでなく、身体感覚(筋肉のこわばり、呼吸、心拍など)に気づきを向けること
  • 安全な他者とのつながりの中で、感情を少しずつ外に出していくこと

こうした作業は、一見地味で劇的な“癒し”には見えません。
しかし、ここにこそ神経系の再調整が起こり、
ブラックホールの重力が少しずつ弱まっていくのです。

自律神経とトラウマ反応の関係については、
自律神経系の症状チェックと原因: ポリヴェーガル理論の視点から
で、過覚醒・フリーズ・シャットダウンの仕組みを詳しく解説しています。


絶望を超えて——希望を灯す自己表現と自由への道

トラウマを抱えた心が再び動き出すとき、
そのきっかけはしばしば**「自己表現」**の瞬間から始まります。

  • カウンセリングで、初めて本音を言葉にする
  • 誰にも見せないノートに、感情を殴り書きする
  • 音楽や絵、写真などで、言葉にならないものを外界に投げ出す

そのどれもが、心の奥で閉ざされていた感情を、
「世界に向かって差し出す」行為です。

それは同時に、

「私はここにいる」
「私は生きている」

と宣言することでもあります。

長い間、空気のように扱われ、
「弱さを見せてはいけない」「迷惑をかけてはいけない」と
自分を消してきた人ほど、この自己表現には大きな意味があります。

自己表現は、過去を正当化するためではなく、
「今の私」を世界と再び結び直すための行為です。


ブラックホールと共に生きるという現実

現実には、ブラックホールが完全に消えることを目標にしないほうが、回復は安定します。

トラウマの影響は、
「なかったこと」にすることで癒えるものではありません。

むしろ、

引き金に気づける
反応が起きても自分を責めなくなる
一人で抱え込まなくて済む
戻ってくる道を知っている

こうした変化こそが、
ブラックホールの重力を弱めていきます。

回復とは、
闇の消失ではなく、闇に飲み込まれない距離感を身につけることです。


終章——闇を抱えて生きることは、光を知ること

トラウマを抱えるということは、
人生のある時期を、あるいは長い期間を、闇の中で生きることでもあります。

しかし、それは同時に、
誰よりも「光の尊さ」を知ることでもあります。

  • 痛みを通して、他者の痛みに触れる優しさを学ぶ
  • 絶望を通して、希望の小さな灯火の価値を知る
  • 孤独を通して、本当のつながりの意味を知る

心のブラックホールの奥深くで見つけた一筋の光は、
やがてその人の生き方全体を照らす“内なる灯火”となります。

闇を消そうとするのではなく、
その闇の中に宿る光を見つけること。

それこそが、トラウマを抱えた人が
“自由に生きる”ための、最も深い癒しの道なのです。

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【執筆者 / 監修者】

井上陽平(公認心理師・臨床心理学修士)

【保有資格】

  • 公認心理師(国家資格)
  • 臨床心理学修士(甲子園大学大学院)

【臨床経験】

  • カウンセリング歴:10年/臨床経験:10年
  • 児童養護施設でのボランティア
  • 情緒障害児短期治療施設での生活支援
  • 精神科クリニック・医療機関での心理検査および治療介入
  • 複雑性トラウマ、解離、PTSD、愛着障害、発達障害との併存症の臨床
  • 家族システム・対人関係・境界線の問題の心理支援
  • 身体症状(フリーズ・過覚醒・離人感・身体化)の心理介入

【専門領域】

  • 複雑性トラウマのメカニズム
  • 解離と自律神経・身体反応
  • 愛着スタイルと対人パターン
  • 慢性ストレスによる脳・心身反応
  • トラウマ後のセルフケアと回復過程
  • 境界線と心理的支配の構造