メラニー・クラインの対象関係論:妄想分裂ポジションと抑うつポジション

人間の心は、生まれ落ちた瞬間から世界を丸ごと理解できるわけではない。
世界はあまりにも巨大で、あまりにも流動的で、あまりにも痛い。

そのため、乳児の心はまず
「良い」と「悪い」 という二つの断片に世界を切り分け、
その断片を抱えながら“自分”を形作っていく。

この初期の分割は、のちの人生における
愛のかたち、怒りの向かい方、信頼の築き方、裏切りの受け方…
ほぼすべての対人反応のテンプレートになる。

それが対象関係論の見つめる世界であり、
クラインが描いた二つの心的状態――
妄想分裂ポジション抑うつポジションは、
単なる発達段階ではなく、
**生涯にわたり揺れ動く“心の重力場”**である。


対象関係論の基礎:内面化は「記憶」ではなく「生きた地形」として残る

子どもが母親の表情の変化、声の揺れ、触れられ方、そして“不在”をどのように体験したか。
それらは単なる記憶ではなく
**「内面化された地形」**として心の底で形をとる。

この地形は、成長後も次の問いを裏側で操る。

  • 私は安心して寄りかかっていい存在なのか
  • 他者は私を壊すのか、育てるのか
  • 近づくと溶けてしまうのか、離れると消えてしまうのか

この「地形」が歪むと、トラウマ反応や対人恐怖の背景にある
**“世界の見え方そのものの偏り”**が生じる。

神経系がつくる危険地帯と安全地帯
身体はトラウマを記憶する|脳・心・体のつながり


クラインの無意識理論:乳児の幻想(phantasy)は“物語”ではなく“生存技術”である

クラインにとって、乳児は“観察不能な黒箱”ではなかった。
彼らはすでに**幻想(phantasy)**を駆使し、
世界を構成し、自我を守り、関係を編み始めている。

乳児は身体感覚の高まりを「対象の性質」へ投影し、

  • 満たす乳房 → 良い乳房(優しさの象徴)
  • 飢えさせる乳房 → 悪い乳房(攻撃性の象徴)

という、情動が対象を塗り替える方式で世界を理解する。

ここで重要なのは、
乳児は「良い母と悪い母がいる」と思っているわけではない。
“同じ母をそう感じ分ける力がまだない”のだ。

そのため心は、
「分裂(splitting)」という最古の防衛を選ぶ。
複雑さの処理ではなく、生存のための即応反応である。

解離の成立と「心が世界を切り分ける瞬間」
解離したあちら側の世界への没入体験:空想・妄想と現実とのつながり


良い乳房/悪い乳房:世界を二分しなければ崩壊してしまうほど、世界は過酷である

空腹、痛み、母の不在、予測不能な環境。
乳児にとってはどれも“自我の消滅”に直結するレベルの恐怖だ。

だから心は、世界を以下のように割る。

  • 生かしてくれるもの(善)
  • 自分を殺すかもしれないもの(悪)

これは未熟さではなく、
**“世界の大きさに耐えるための縮図化”**である。

分裂とは“世界を切断する行為”ではなく、
世界に押しつぶされないための初期構造化なのだ。


妄想分裂ポジション:世界は二つの顔をもつ――いや、二つに割らないと耐えられない

心理的特徴

  • 対象を「すべて善/すべて悪」として扱う
  • 不安を相手へ押し出す投影・投影同一化
  • 理想化と悪魔化の振れ幅が極端
  • 背後には常に“迫害不安”が潜む

臨床的スケッチ(物語)

母が数分離れただけで、世界は“悪の領土”に転落する。
母が戻り、抱き寄せた瞬間、すべては“救済の領土”へ塗り替わる。
同じ母が、二つの別人として体験される。

ここで重要なのは、
乳児は“事実”として世界を見ているのではなく、
自分の内部状態を世界そのものとして感じているということ。

妄想分裂ポジションとは、
世界を理解する前に、
世界に捕食されないための“避難所”として生まれた位置なのである。


抑うつポジション:「愛しているのに怒ってしまう」という人間の根源的矛盾を抱きとめる力

心理的特徴

  • 良い乳房と悪い乳房が“同じ対象”であることの発見
  • 愛と敵意が共存するという耐えがたい複雑さ
  • 相手を壊したかもしれないという罪悪感
  • 壊したい衝動と守りたい願いの修復(reparation)
  • 全体対象の成立(共感・思いやり・成熟)

臨床的スケッチ

「もう嫌い!」と母を叩いた子どもが、
数秒後には泣きながら抱きつく。

この矛盾が初めて“一つの関係”として理解された瞬間、
罪悪感と修復の情動が生まれる。

抑うつポジションとは、
世界を二つに割らずに持ちこたえる力であり、
すべての成熟した愛の基礎である。


トラウマと愛着の視点:成人期に残る「分裂のクセ」という影の構造

乳幼児期に不安定な環境が続いた場合、
分裂は“発達過程の一段階”ではなく、
生涯の対人戦略となって残り得る。

  • 理想化と脱価値化の急激な循環
  • 親密さが怖いのに、孤独が耐えられない
  • 自己像の振れ幅が大きい(善なる自分/悪なる自分)
  • 相手を全体として認識することの困難

愛着スタイルが見捨てられ不安にどう影響するか
見捨てられ不安がしんどい時に試したいセルフチェックと愛着ケア法


成人臨床スケッチ:“完璧な恋人”と“冷酷な敵”のあいだで心が揺れるとき

ネグレクトを受けたクライエントは、
恋人を一瞬で“理想の救済者”として神格化し、
小さな失望で“悪意の象徴”として切り捨てる。

治療者はその分裂線を静かに指し示し、
**「両方を同じ人として持つ」**という
抑うつポジション的世界観へ向かう道を照らす。

このとき治療が育てているのは、
関係の“善悪判定”ではなく、
複雑さの耐性である。


現代臨床への応用:統合とは、白黒を消すことではなく、同じ絵に配置できるだけの余白をつくること

  • コンテインメント:吹き上がる情動を安全に保持する器
  • 解釈:分裂・投影・理想化の力動を言語化
  • 修復の促進:壊したい衝動と守りたい願いの両価性を承認
  • メンタライゼーション:自他の心を想像する“中間領域”の回復
  • 身体的安定化:神経系のゆらぎに合わせた呼吸・接地・感覚統合

心理療法の目的は、
“良いか悪いか”の判定をやめさせることではない。
悪い現実の中でも、良いものを感じ、
良い現実の中でも、影の部分を受け止められる

その器の大きさを育てることである。


セルフワークのヒント

  • 二列ジャーナル:同じ相手の「良い/困る」を同時に書く
  • 修復メモ:怒りの後に「その関係に何を残したいか」を書く
  • 中庸の言い換え:「最悪だ」→「今日うまくいかなかった点もある」
  • 身体の安全基地:足裏圧覚・吐く息長め・視線の水平スキャン

統合とは、「世界が優しくなること」ではない。
世界の荒さに耐え得る心の構造が育つことである。


よくある質問(FAQ)

Q1. 妄想分裂ポジションは「悪い」発達段階ですか?
A. いいえ。初期の心を守る適応的防衛です。問題は、成長後も硬直してしまい、統合へ向かう可塑性が弱まる場合です。

Q2. 抑うつポジションへ一度行けば戻りませんか?
A. 人は状況やストレスで行き来します。重要なのは、戻っても再び統合へ復帰できる手がかりを持つこと。

Q3. トラウマがあると統合は無理ですか?
A. 不可能ではありません。安全・ペース・関係性が確保されれば、統合は十分に育ちます。専門的な支援が助けになります。


まとめ:複雑さを抱えて生きる力

クラインの対象関係論は、初期関係が心に刻む分裂→統合の旅を示します。

  • 乳児は世界を「良い/悪い」に割ってしのぐ
  • 成長と安心が整えば、相反する感情を同じ相手に抱く力が芽生える。
  • 成人臨床では、この統合を支える関係・言葉・身体の足場づくりが要です。

「良いあなた」と「不完全なあなた」を同じ一人のあなたとしてやさしく抱え直すこと――それが、対人関係の安定と自己肯定感の回復に直結します。

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【執筆者 / 監修者】

井上陽平(公認心理師・臨床心理学修士)

【保有資格】

  • 公認心理師(国家資格)
  • 臨床心理学修士(甲子園大学大学院)

【臨床経験】

  • カウンセリング歴:10年/臨床経験:10年
  • 児童養護施設でのボランティア
  • 情緒障害児短期治療施設での生活支援
  • 精神科クリニック・医療機関での心理検査および治療介入
  • 複雑性トラウマ、解離、PTSD、愛着障害、発達障害との併存症の臨床
  • 家族システム・対人関係・境界線の問題の心理支援
  • 身体症状(フリーズ・過覚醒・離人感・身体化)の心理介入

【専門領域】

  • 複雑性トラウマのメカニズム
  • 解離と自律神経・身体反応
  • 愛着スタイルと対人パターン
  • 慢性ストレスによる脳・心身反応
  • トラウマ後のセルフケアと回復過程
  • 境界線と心理的支配の構造

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