反出生主義者の主張は「正しすぎる」か「気持ち悪い」か?その思想の背景とは

社会・哲学

反出生主義は、現存する人間の苦しみや痛みを考慮し、生まれなかった方が良いのではないかという思考に基づいています。人は生まれない方が幸せだという考え方は、誕生を避けることが良いとされ、すべての人間が存在しなかった方が適切であると主張されています。また、反出生主義者は、子どもを産むことに慎重な態度を取り、無闇に子どもを産むべきではないと考えています。

人間の欲望や破滅的な性質についても、反出生主義は批判的な視点を持っています。彼らは、人間の欲望が混沌とし、社会や環境に悪影響を及ぼすことを指摘し、破滅をもたらす存在として人間を見なしています。しかし、これは全ての人間が破滅を望むというわけではなく、あくまで人間の本質に対する厳しい議論を展開しているのです。

反出生主義は、生命の価値や人間の幸福、存在意義を問いかけることで、私たちに人間性や倫理的な選択について考えさせる機会を提供しています。しかし、この考えに対しては様々な意見があり、人生の価値や喜びを享受することの重要性を考慮することも大切です。このような思想は、社会や環境への責任を自覚し、より良い未来を築くための議論を促進することができます。

苦痛の回避としての非存在

反出生主義の核心にある考え方は、苦痛が避けられないのであれば、最も倫理的な選択肢は非存在である、というものです。彼らは、生命を持つことによって生じる苦痛や不安、社会的不平等が存在する以上、生まれてこないほうがその人にとって最善であると主張します。この見解は、特に貧困、戦争、気候変動といった社会問題が深刻化する中で、ますます議論の的となっています。

反出生主義者は、すでに存在している人々の苦痛を軽減するための社会的支援や治療が重要である一方で、未来の世代がその苦痛を経験することを避けるためには、新たな生命を誕生させない選択肢があることも認識すべきだと主張します。彼らの立場は、未来の苦しみを予防するという意味で、苦痛の回避を最大限に尊重するものです。

トラウマと身体の痛み、心理的苦痛

トラウマとは、私たちの心と体に深く刻み込まれるものであり、その記憶はしばしば身体の中に残り続けます。 これが身体的不調や長期間にわたる痛みとして表れることがあります。 例えば、胎児期や乳児期に事故やストレスフルな体験をした人々は、それが原因で慢性的な身体的な痛みを抱えることがあります。 こうした痛みや不調は、単なる身体的な問題ではなく、心身の相互作用の結果として現れるものです。

身体が経験する痛みの感じ方は、一人ひとり異なります。 たとえ同じ出来事を経験したとしても、その痛みや苦しみの度合いは人によって大きく異なることがあります。 ある人にとっては耐え難い苦痛であっても、別の人にとっては比較的軽い痛みと感じられるかもしれません。 この差異は、痛みを感じる神経系の違いや、心理的な耐性、過去の経験が影響しているのです。

痛みの感じ方には、5倍から100倍もの個人差があると言われており、これは身体だけでなく、心の受け止め方にも大きく関係しています。 トラウマを抱えた人々は、体に現れる痛みと同時に、心の中に根付いた不安や恐怖とも闘っています。 こうした苦痛は、単なる身体的な症状だけでなく、心身の深層にある問題として捉える必要があります。

発達初期のトラウマの暗黒面

発達初期にトラウマを経験した人々は、幼少期の困難な状況に適応するために、自己防衛的な態度を取ることが多く、その過程で内面的に特定の心理的プロセスを辿ります。 この時期に受けたトラウマは、心だけでなく身体にも深く刻まれ、再び同じような傷つきや恥を感じる場面に直面すると、耐え難い苦痛を伴うことがあります。 そのため、彼らは無意識のうちに自己防衛のために、自らの暗い側面を表に出し、他者から自分を守ろうとするのです。

この自己防衛の態度は、人間の根源的な生存戦術の一部といえます。 自分の「暗黒面」と同一化することで、かつて経験した恥や痛みから逃れようとする試みがなされます。 しかし、こうした防衛は必ずしも建設的ではなく、むしろ人間関係の維持や他者との深いつながりを築くことを困難にすることが多いです。 心の奥底で渦巻く強い攻撃的なエネルギーは、他者とのつながりを欲する願望に対して逆に攻撃的な反応を引き起こし、結果として大切な関係を断ち切る力を発揮してしまいます。

このような状態では、彼らは愛情や親密さを求めながらも、それに伴うリスクや痛みを恐れ、無意識に自らを孤立させることがあります。

苦痛に対するシゾイド的防衛

発達初期にトラウマを経験し、シゾイド的防衛を行う人は、しばしば深い身体的な痛みを抱えています。彼らの内面には、常に張りつめた緊張感と極度の弛緩が同時に存在しており、その結果、まるで凍りついたように動作が硬くぎこちなく、身体に不自然さが現れることがあります。この身体の特徴は、心身が長い間、繰り返し脅威にさらされた結果として表れた痕跡です。

この状態は、彼らが混沌とした感情を抑え込み、自分を守るために身につけた防衛の一環でもあります。感情を表現することは、リスクや傷つきやすさを伴うと感じているため、彼らは自然と他人との距離を置き、感情の発露を極力避けようとします。このような防衛的態度は、彼らにとっては自己保護の手段ですが、同時に人間関係において大きな壁を築いてしまいます。

シゾイド的防衛を行う人は、愛する人と親密に過ごすことや、深い関係を築くことに困難を感じます。彼らは本来、母親などの愛着対象に対して深い愛情を抱き接近しようとしますが、幼少期のトラウマによって、その愛情が憎しみや拒絶感に変わることがあります。幼少期に得られなかった愛情への渇望が根底にあるものの、その感情がトラウマによって阻まれるため、近づくことができないのです。

結果として、彼らの内面では、愛着対象に対する複雑な感情が渦巻き、日常生活においては憎しみや拒絶感が支配的な態度となって現れます。社会に対しても無関心や批判的な態度を取ることが多く、シゾイド的防衛を行う人々は、外の世界と自己との間に見えない壁を築き上げ、孤立感の中で生きることが一般的です。この防衛的な態度は、彼らが再び傷つくことを恐れるがゆえの、深い心の防壁といえるでしょう。

無責任な出生の問題

反出生主義が警鐘を鳴らすのは、特に無責任な出生の問題です。 子どもを持つという決断が、深い熟慮や準備なしに行われることが多い現代社会では、子どもたちはしばしば不安定な環境や貧困、虐待の中で育つリスクを抱えています。 親が十分な愛情や支援を提供できなければ、その子どもは人生の最初から困難に直面し、それが一生にわたって続く可能性があります。

反出生主義者は、こうした事例を「無責任な出生」として批判し、子どもが苦しむ可能性がある状況で、親になることの倫理性を強く問いかけます。 彼らは、生命を誕生させる行為がもたらす長期的な影響にもっと慎重であるべきだと主張し、子どもを持つことが親の自己満足や社会的圧力に基づくものであってはならないと警告します。

さらに、反出生主義者は、個々の選択が未来の世代にどう影響を与えるかを考えるべきだと主張します。 生まれてきた子どもがどのような世界で生きることになるのか、その子どもが直面するであろう問題や困難を事前に考慮し、それが避けられない場合には、生命の誕生を見直すべきだとする考え方です。

生まれ落ちることの暴力

人間の人生において最も大きな影響を与える要素の一つは、どのような家庭環境で育ち、どのような親によって成長を支えられるかです。 もし裕福で愛情に溢れ、心身ともに支えてくれる親のもとで育つことができれば、子どもは安心して自らの可能性を追求し、自己実現に向かって生きることができるでしょう。 そうした環境では、子どもは自己信頼や他者との健全な関係を築きやすくなり、社会に対しても前向きな姿勢を持つことができます。

しかし、一方で、暴力を振るう親や搾取的な家庭環境のもとで育った子どもは、自らの夢や目標に向かって努力する土台さえ与えられないことが多いのです。 彼らは常に恐怖や不安にさらされ、基本的な安心感が欠如したまま成長するため、自分の未来に希望を抱くことすら困難になります。 このように、どの家庭に生まれるかによって、その後の人生の質が大きく左右される現実があります。 そして、そのような状況は、しばしば運や偶然に左右される不平等な側面を持っています。

この不平等さが「人間の生に内在する暴力性」とも言われる背景には、子どもが生まれる家庭環境を選ぶことができないという厳しい現実があります。 反出生主義者は、この現実に着目し、親が子どもを生むこと自体が、時に暴力的な行為となり得ると主張します。 つまり、子どもが生まれてくることで苦しむ可能性が高いのであれば、そもそも生まれないほうが良い、という考えです。

この立場は、愛情や支援を十分に与えることができない親や、虐待やネグレクトが存在する家庭環境を想定しています。 反出生主義者は、子どもがそのような環境で育つことを避けるために、非存在の方が無痛であり、むしろ幸せだと考えます。 彼らは、子どもを生むことが無責任であり、親の自己満足からくる行為であると批判することもあります。 この思想は、人間の生命に対する根源的な問いかけを含んでおり、生命の価値とは何か、生まれてくることの意味とは何かを深く考えさせるものです。

この世界の不平等と苦痛

この世界には、目には見えないけれども確実に存在する階級や格差があり、その影響は人々の人生に大きく作用します。生まれてこなければ、このような不平等に悩まされることはなかったのではないかという考えが、時に人々の心に重くのしかかります。

子どもは自分の親を選ぶことはできず、親の選択や環境に大きく左右されます。その結果、虐待やネグレクトといった過酷な状況下で育つ子どもたちは、生まれてこなければ良かったと感じることもあります。このような家庭環境は、無垢な子どもにとって暴力そのものであり、心に深い傷を残すものです。愛情や支援を受けられなかった子どもたちは、成長するにつれて、社会に適応するのが難しくなる場合が多いでしょう。

さらに、社会構造もまた、子どもたちの将来に影響を与えます。裕福な家庭に生まれた人々は、経済的に恵まれた環境で育ち、教育やチャンスを得やすい一方で、貧しい環境で生まれた人々は、生まれながらにしてハンディキャップを抱えることが多いです。このような格差や不平等は、社会の仕組みが変わらない限り世代を超えて受け継がれ、未来の犠牲者を生み出し続けます。

反出生主義者は、この不平等な社会構造に対して深い疑問を投げかけます。彼らは、目に見えない階級や権力構造が、苦しみを強いる犠牲者を生み出し続けるとし、生まれなかった方が無痛の状態でいられたと主張します。彼らの考え方は、人々が生まれてくることによって、不平等と苦しみにさらされる現実への批判に根ざしています。

反出生主義者は、経済的格差や教育機会の不平等、人種差別、ジェンダー不平等など、さまざまな要因によって社会の犠牲者が生み出され続けると考えます。そのため、新たな生命がこの不公平な世界に生まれることが正当化されないとし、子どもが生まれない方が良いという結論に至ることがあります。

人類滅亡への望み

人間は欲望に満ちた汚れた存在であり、この世は地獄だから、それゆえに人類が滅亡に向かうことは望ましいとされます。反出生主義者の中には、無垢で純粋な動物たちが住む世界が理想的であると考える人もいます。

この思想は、人間の欲望が様々な苦痛を生み、さらに自然界や他の生物に対して悪影響を及ぼすことを批判的に捉えています。例えば、環境破壊や資源の枯渇、動物たちへの虐待など、人間の欲望によって引き起こされる問題があげられます。このため、反出生主義者の中には、人類が地球上から姿を消すことによって、無垢な動物たちが住む平和な世界が実現すると主張する人もいます。

反出生主義の優しいところ

反出生主義者は、自分自身が経験した苦痛や悲しみを他人にも味わわせたくないという優しさを持っています。彼らの思考は、人々の幸福を真剣に考えることから生じるものであり、他人が苦しみや困難に直面することを避ける方法を探求しています。

この優しさは、反出生主義者が新しい生命が誕生することによって起こる悩みや苦痛を軽減しようと願っていることからも理解できます。彼らは、将来的に子どもが経験するであろう困難や苦痛を減らすことができると信じており、そのために出生そのものを避けることを提案しています。

反出生主義の未来

反出生主義は、単なる個人の選択に留まらず、より大きな社会的、哲学的な運動として発展する可能性を秘めています。社会が持つ倫理的な枠組みや価値観が変わりつつある現代において、反出生主義は私たちに新たな視点を提供し、今後の社会のあり方や生命に対する態度を問い直す機会を提供しています。

この思想は、ただ苦痛を回避することにとどまらず、人間の存在そのものをより深く理解し、私たちがどのように他者との関係を築き、社会を形成するかという問題にも結びついています。

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トラウマケア専門こころのえ相談室
公開 2023-05-05
論考 井上陽平

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